Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2014年03月10日(月) |
多田父子。アシュケナージ父子。 |
そうだ、無職プー太郎な2年間には、こんな日もあったなあ。 背景はきっと茫洋とした海なのだ。 なんとか現実にしがみついて生きる未来の3にんの姿をトレースしていた写真だと想う。
アシュケナージ父子@サントリーホールに行ったんだが、 20世紀を代表するピアニストなのに、息子と小銭稼ぎして日本横断ツアーしているだけの代物だったのだ。
ほんとにオレの耳は大丈夫なのか?ブッ壊れたのではないか?と内心おろおろしていた。
仕事で知遇を得たクラシックファンのラダメス師から以下のメールが届いた。
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アシュケナージは昔から評価の高いピアニストですが、レコード聞いても、演奏会でも、私には何も感じられず、その評判ゆえ、踏ん切り悪く、「相性が良く無い演奏家」としていました。
ロスでフィルハーモニの会員だった時、隣で口を訊いた事のなかったお婆さんが話しかけてきて、アシュケナージのそれに、「あたしは、何にも心が動かなかった。」と言ってきたので、「私もです。昔から評価は高く、音も音楽も奇麗だが、音楽を感じた事がありません。」と言ったら、「ほら、彼も感じなかった。」と皆に言い触らしていた事を思い出しました。
ジュリーニの内面から吹き出るようなブラームスの冒頭音楽に感情が感高まった時に、空気を感じない無色透明な音が繰り広げられるので、邪魔なピアノ音にフィルターをかけるのが悲しかった。「だから指揮をやってんだな」「N響も馬鹿にされているのに、たかが知れている」と冷ややかに見ていました。
舞台に乗る価値のない音楽性の息子のデビューに、何で金払って付き合わなければならないのか、音楽の没落の起因は「チケットぴあ」ですが、促進させたのは「サントリーホール」であることを、この機会に指摘させていただきます。外の広場でやれって言うほどの物だと感じます。CDの販促かよ。カジモトのオンタンチン。
まだ魔法が半分解けてなく、幻のベールで穴を隠していた「ラザール・ベルマン」が息子のバイオリンと組んで息子の日本デビューリサイタルを無理やりやったのに付き合いましたが、音楽の差を感じるだけで何もありませんでした。 そんなところで、23日(日)にサントリーに行き、ゲバントハウス管弦楽団を聞きます。指揮は拉致したいほどのシャイー。
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基本、音楽は孤独で聴くものである。 が、いくらマイナーであるような意見であっても同じことを感じているひとが存在するというだけで、救われるというか、勇気百倍なのである。
Jazz Tokyo レビューはこれくらいで収めておくのだ。 招待券をいただいておいて、プロモーションにならないテキストを投稿するというのは道義に反するものである。
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旧ソ連の至宝、20世紀を代表するピアニスト、ウラディミール・アシュケナージ。
クラシックのファンではないのに、レコード芸術を10数年買っていた(80年代半ばから90年代後半あたり)。ヨーロッパのジャズのレーベルだったECMがクラシックをリリースする”ニューシリーズ”を始めたので、どのように国内盤になってクラシック界で評価を得るか関心があったからだ。アシュケナージのグラビアも記事もたくさん見た、ピアノの王者のようなハンサムなおじさま、職場にはファンの上司がいて何枚かLPやCDを借りたことはあった。わたしは若者らしくグールドやアファナシエフやミケランジェリが好きだった。
1955年の第5回ショパン・コンクールでアシュケナージが2位になったことに、ミケランジェリが不服で審査員を降板するというドラマに驚く。ミケランジェリとはピアニズムが違い過ぎるではないのか。まだまだピアノの奥は深い。
旧ソ連の至宝といえば、こないだエリソ・ヴィルサラーゼを聴いてノックアウトされたばかりだ。
20世紀を制覇したアシュケナージの初体験。息子ヴォフカとのピアノ連弾プログラムを聴いてきた。
76歳のアシュケナージは小柄の白髪のおじいちゃん、頭一つ長身の付き人運転手のようなハンサムおじさんと登場。
さすがに老境の身動きではあるけれど、その強靭なタッチに度肝を抜いた。なるほど、これが20世紀を制覇したヴォイスだ。絶頂期のタッチを演算するように耳を傾ける。ヴォフカのピアノも、的確であり、さすが教育者の道を歩むひとの折り目の正しさである。強烈な天才スターを父に、父と同じ道を歩む息子の人知れぬ苦労も挫折もあったのではないだろうか。勝手に想像しては頭が下がる思いがする。
息をのむという突き詰めはない。クールにゆとりを持って合わせて音符を組み上げている。異なるピアノを弾いているのか、ピアノの向きでこんなに響きが異なるのか、二人のピアノタッチの差異なのか。二人のピアノ・タッチの質量の差といったものは明白で、それは巧拙というものではなく、おそらくピアニストとしての性質の違いだ。どう歩み出ても猛獣であるような父親のピアノに、高性能コンピューターで最適解を瞬時に突きあう図式が見える。音楽はばっちり合っている。合うことがこの音楽の生命線であるかのように、父子はその瞬間の連なりを呼吸しているのだった。
そしてシューベルトもブラームスも、同じように楽譜が視界に映るような演奏だった。
2台のピアノ連弾で、シューベルトやブラームスのオーラを漂わす演奏は不可能なのかもしれない。そういうカタチの楽譜の演奏、味わうべきは二人のピアノタッチのコンビネーションの妙、だということは了解できた。2台のピアノで弾くオーケストラのような響きを堪能する、それ以上でも、それ以下でもない。それだけでもかなりな高水準な技能なのだ。
ストラヴィンスキーの『春の祭典』は20世紀を創った楽曲だと、評価している。特別な、デモーニッシュな、革命的な音楽だ。これの2台ピアノ連弾版をストラヴィンスキーは書いていた。知らなかった。可能なのだろうか。可能なのだろうか?ストラヴィンスキーにきいてみたい気がする。アシュケナージ父子は、前半のシューベルトやブラームスと同じように楽譜が視界に映るようにしか弾けないでいる。アシュケナージ父子をもってしても、精密な曲芸以上にはトリップさせられないでいるではないか。
アシュケナージの新作は、アニメーション作品『スノーマン』のテーマ曲「ウォーキング・イン・ジ・エア」を含めたハッワード・ブレイク作品集だという。『スノーマン』は、幼少期の記憶を召喚して誰もがお布団の上を飛んで行ってしまうという、類まれなコアな作品だ。この旋律の喚起に抗うことはできない。アシュケナージの老境が、この旋律を弾くというのは、とても21世紀的なことだと感じる。ポピュラー音楽を愛好するわたしは大歓迎だ。
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