Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2013年11月01日(金) |
耳の枠はずし「アンサンブルの解体/再構築の後に来るもの − 「タダマス11」レビュー」 |
箱根名産わさび漬、村上次郎商店。わさび漬きらいな天ぷら職人55が食べる別格もの。うまー。
福島恵一さんから、まさに瞠目すべき現代ジャズ論が提示された。 耳の枠はずし「アンサンブルの解体/再構築の後に来るもの − 「タダマス11」レビュー」■ (タダマス11=益子博之多田雅範四谷音盤茶会 Vol.11 )
Derrick Hodge のサウンドに、Masabumi Kikuchi TPT Trio の等価を視ていた。これは我々が提示できていた。しかし。
まず、アンサンブル・インプロヴィゼーションの「局所限定適用」と「全面適用」という腑分けが、鮮やか。このテキストに行き着けないでいた。
Mark Dresser は「古いでしょ?」、対してMary Halverson は「新しいでしょ?」とは、言えた。しかし。
『レイヤー的構築によるアンサンブルの解体/再構築のモデルは、これまでポスト・プロダクションによって獲得されていた地平(『In A Silent Way』)を、リアルタイムのアンサンブル・インプロヴィゼーション(Derrick Hodge, Masabumi Kikuchi TPT Trio)によって獲得すること、これにより、アンサンブルの「体感感覚」を更新することを目指しているように思われる。』
と、我々が快楽に基づいて掲げた後半選曲の「新しさ」のラインナップ (Mary Halvorson Dave King Trucking Company The Claudia Quintet Matt Mitchel)を、 こう、テキスト化することができなかった。
『先走った物言いになるが、』以降は、まったくくちあんぐり、な、現代ジャズに至るジャズ正史だ。
タダマスでかかる現代ジャズ盤の理論的な概念が基礎付けられたのである。
わたしの主張「わたしの快楽主義は速度と浮遊の技法に反応しているだけである。ケニークラーク、エルヴィンジョーンズ、ロイヘインズ、トニーウイリアムス、サニーマレイときて、ジャックディジョネット、ヨンクリステンセン、不可視化したポールモチアンという流れで見ている。」との対比。
タダマスは、Jazz Tokyo多田がcom-postの益子を読み、追っかけ、橋爪のライブで出会い、新譜紹介をなぜやらないと抗議したのが発端である。NYシーンに対する耳は、座間裕子と幸福な交差をして以降、わたしは孤独だった。単に“趣味がおんなじ”ということではないと思っていたが。益子博之のセレクトを追っかけている。
複数の耳による化学反応と、福島さんは我々をよいしょしてくれているけれど、このクオリティの立論、動かし難い定義。
いま、わたしの脳内には、ウルトラマンを中心に、左にセブン、右にエースがそれぞれにポーズを決めている映像があり。とても、誇らしい気持ちでいる。セブンとエースが、並み居る凶悪現代ジャズ怪獣たちに挑み、苦闘し、そこへ最期のとどめを刺しにマンがスペシウム光線を放ったのだ。(おいおい図に乗りすぎ)
(数年前、わたしセブンは、ゾフィー兄さんとジャックと京都へ鈴木昭男を聴きに行ったときだったろうか、いろんな話をしながら酔ったような勢いで「おいらには、音楽が聴こえるんだ」と発語し、「おいらには、あらゆる音楽の統一理論があると思ってんだ」は、たぶんあんまりなので発語しないでいた記憶がある。中井久夫の「踏み越え」だと直感していた。余談。)
「新たなゲームの時代の到来とこれにより再生される即興共同体」は、今後どのような展開に向かうのか。
演奏家たちは、個々の快楽の記憶を新たなゲームに織り込んでいるのだ。
多様化は熱死に向かうのだろうか?もはやジャズもインプロもロックもクラシックもフィールドレコーディングスも売り場の仕切り板になりつつある。
「新しい言葉が必要なのだ。」これは、出会った頃に益子の口から出ていたフレーズだ。
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