Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2013年08月08日(木) |
多田が珍しく益子と一見対立する「ジャズ耳」的な立場 |
ニセコの大空を、風の鳴る音を聴いていると、電気を使った音楽が総じてダメに聴こえてしまうんだが、ひこうき雲荒井由実と青函連絡船の実況録音を聴いてドライブしていた。
飲用不適と表記された湧き水にわざわざクルマを停めて 皆の制止をかえりみずに飲むおれ。 うけげ、ほんとまじい!はよタバコタバコ、コーラコーラ。
福島恵一兄さんから、仔細に愛情のこもったレビューをいただいていた。
他の耳が聴いているもの − 「タダマス10」レヴュー ■
ニセコのロッジで、年上の義弟が仕切ったバーベキューでホタテもイカもジンギスカンもホルモンもたらふく食べて深夜のアイスコーヒーをのみながらアイフォンで読んでいました。レイヤー構造も、ポップのかたちも、この夜空の下で思考するとき、また、爽やかに涼しげに未来の到来を楽しみにする構えになってくるのでございます。
イエスの危機やタンジェリンドリームの浪漫やウイングスのスピードオブサウンドに空間性を聴いていた中学生が、1980ねんに18で上京して高田馬場ムトウでECMコーナーのジャケの彼方に視線を飛ばしていたのは、「ここではないどこか」=「失われた故郷への視線」=「北海道」だったのかな、と、52の夏になって思うのですが、そんな安直な、ことでいいのでしょうか・・・。
それはさておき、「タダマス10」レヴュー、今回もまた福島さんの指摘によって四谷音盤茶会の価値が定置されているとも言うべき事態です。益子さんは「毎回厳しいご指摘が嬉しい」と書いてますね(今、チェックした)、厳しいのかな、おいらには、いつも起こっていた事態の明確化に目が醒める思い。
クレイグテイボーントリオ『Chants』の選曲で、え?あの長いトラック?と意外に思い、益子さんのセレクトとしてこのトラックに耳をそばだてたとき、このトリオの可能性のありようが耳に察知することができた。それで、それをどう言語化したらいいのか、と、これまた着地しないでいたところ、モーガンのベースは句読点の打ち込みではないかとの聴取の読み。「たださんはピアノソロの革命がECMからと言っていたけど、ぼくはこのトリオはピアノトリオの革命と感じた」と。私たちが無計画に断じた輝かしい宣誓だ、うおおお。
ぼくは冊子イントキシケイト記事でモーガンがすごい、モーガンはラファロだと書き、タガララジオ34では「この軽やかさと、ジャズピアノの歴史に着地しないよそよそしさは、」とだけ書き、続けてデスメタルバンドのゴーガッツを紹介して、その外部性に核心があるのかなあと考えていた。それは音自体に向き合わないでいたわたしの弱点であった。つまり、益子さんの聴取のほうが数段すごかったのだ。
それが福島さんを唸らせたという事実だけでもすごいんだが、その聴取体験を綴る福島さんの記述の密度もすごいというか、鬼気迫っているのは読み取れているよね、あなたさま。この聴取は演奏者自身も意図として明確に対象化していないのでは、とまで輪郭を描いてみせている。
もう、批評家益子博之と批評家福島恵一の現代ジャズ横綱対決と言っていい風景なのだ。
皆勤参加いただいている月光茶房店主原田正夫さんのコメントも飛ぶ、月光茶房は晩年の清水俊彦が入り浸っていたジャズ喫茶であるし。福島さんは2年前のレクチャー「耳の枠はずし」で清水俊彦の耳の軌跡と真価を音で辿り、まさに即興〜音響〜音響以降を、ジャズ・アヴァンギャルド以降の批評を継承するものであったし。益子博之は批評サイトcom-post編集長だったし、いーぐる店主後藤雅洋(ジャズ評論界の王だ)がナンバーワンだと高く評価していたことをあちこちでおれはきいていた存在なわけだし。役者は揃ってるよなあー。
・・・このおれ?、は、あれだ、いーぐる後藤さんからアヴァンギャルド系CDばかりリュックに詰めてテーブルに並べているのを見咎められて「おまえは渋谷のメアリージェーンへ行け!」と言われて、作家の川上弘美と後藤さんたちが話しているナイトタイム営業中を割って入って「ここに地図を描いてくれろ」と、川上弘美さんに一瞬見つめられたりして(にらまれた可能性も捨てきれないが)、そしてメアリージェーンに出入りしてたら元JAZZ編集長杉田さんやJazzTokyo編集長稲岡さんとつるみはじめたというゴロツキ野良猫だというから、アウトロー系だよな、あ、アウトゼア系か・・・
”今回、多田が珍しく益子と一見対立する「ジャズ耳」的な立場から「こんな音楽を聴かされて、いったい何を聴いたらいいんだってことですよ」といった旨の発言を繰り返していたのも、私には冒頭の益子の提言を反対側から捕捉していたように思える”
ごおおお、単に多田の反応がイマイチだった、とはしない、この思考。・・・唸るしかない。こんなんポップスだよお、ピーターバラカンさんがかけるアメリカンポップスとしてのジャズだと思うう、とか、前回までEivind Obspikを変態ポップスでサイコー!とか言っていたくせに>自分、という、
で、”「ジャズ耳」的な立場”と福島さんが見抜いていた背景におののくのは、おいらがTPPトリオ、トーマスモーガンにジャズの風景が一変した、自分の耳がそこから動けないでいる事態を見抜いていたことだし、「ジャズ耳」というキーワードは後藤雅洋師が著作にまでした概念だけど、その著作の冒頭で「ジャズ耳」の存在に意を強くしたというエピソード、エクスペリメンタル講演で後藤さんがジョンケージ作品等20曲くらいかかった中でのベスト5トラックを挙げて、おいらが「その順序までわたしも同じですっ!」とほんとにそうだった発言をしていたそのこと、そこに福島さんも益子さんも参加していたわけだけど(証言者のように!)、まあわたしも20代からいーぐるに入り浸っていたのですからジャズ耳はあると、門前の小僧ジャズ耳を感得していたのか、なあ、光栄でございます、はい、といった入り組んだ事態をも見抜いていたからなのだ。
「ジャズ耳」としたときに、後藤、益子、多田は一線上に立たされる。
しかし後藤さんはテイボーン盤には「べつにジャズじゃなくてもいい表現だろうに」と書いていた気がするし、後藤さんはウェインショーター盤に「おれの評論家人生を賭して名盤と断ずる」と書いていた気がするし、どちらも気のせいかもしれないし、そのウェインショーター盤に対してジャズ耳多田はスーパー歌舞伎のこけおどし以上のものを感じなかったわけだ、現代ジャズはいわば能だ、え?能は歌舞伎よりも上位なのかって?当たり前じゃありませんか!、などと、よく論旨の取れない所感を抱いていたものでもありました、
・・・これってさー、後藤さんがなかなか次世代のジャズ評論家が覇権を担わないでるのに業を煮やしてわざとコケてみせてんじゃね?
こんな情けないドラマはないわーと、まじで思っているわけです。ジャズ耳多田よりも数段上位に居るジャズ耳益子博之への印籠だろ、もとい引導だろ、あれ?どっち?後藤さんは同じくショーター盤評価の古刹中山康樹も抱え込んでの、引導だろ、あれ?印籠?コンポストへのジャレット盤クロスレビューに益子さんは参加していないことへの(このへんナシナシ!)
後藤中山が名盤と断じ、益子多田が泣けてきている事態は、経験履歴の異なる世代の耳の差
何を書こうとしているのかわからんくなってきた
京極町のお水は冷たくてシビれましたー
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