Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2012年09月21日(金) |
アンドレ・シェフネル「始原のジャズ」みすず書房 |
アンドレ・シェフネル「始原のジャズ アフロ・アメリカンの音響の考察」1926みすず書房 昼間賢訳 2012
シェフネルが、楽器を、音楽がまずあって、それを演奏するための器具とみなしていたのではないことは間違いない。大昔の人間たちにとっては、楽器自体が音楽だったろう。その響きは、リズムでもメロディーでもハーモニーでもない未分化の状態であり、実際にはそれらすべてでありうる。そしてそれこそがプリミティブなのだとすれば、それは原理上、いつでもどこでも出現可能な状態ということになる。
シェフネルは最後に、ジャズの最大の特徴とされるリズムに立ち帰って、ジャズは奏者が二人いれば成り立つことを示唆している。ジャズが圧倒的にダンス音楽だった時代に、その指摘は相変わらず大胆であり、形態が多様化した今日のジャズとの関係ではまたしても予言的である。
少年時代のシェフネルは、音楽ではドビュッシーとラヴェルに、特にドビュッシーには「熱狂的な賛美」を抱いていた。バッハとモーツァルトにはほとんど関心がなく、ベートーヴェンについては「無理解」だった。
音楽表現は、言葉と同じように、そして言葉よりはるかに深く、原義から逃れ、他の意味をまとい、それ以外を必要としない術を知っている。それらの音楽的な、文学的な脈絡について、そのような場合にどのように解釈すべきなのか、その正確な語義を予測する術を知っている。
ティエール氏は蒸気機関車の将来を信じていなかった。ピエトロ・マスカーニもジャズの将来を信じていない。彼は「諸国政府は、モルヒネやコカインと同様に、ジャズを、公衆の趣味と道徳を必ずや退廃させるこの音楽を禁止すべきだろう」と見積もっている。
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「ジャズは奏者が二人いれば成り立つことを示唆」 なんて、まだエヴァンスとホールのデュオとかベイリーとレイシーのデュオとかドネダと齋藤のデュオとか、出ていない時代だ。
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