Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2012年05月20日(日) |
橋爪亮督グループ作品のクロスレビューレビュー |
「橋爪亮督グループ作品のクロスレビュー!素晴らしい!個々のテキストもクオリティ高くて、見解さまざまなのにすべてに説得力を感じるのだ。林建紀さんの視線は骨も皮も断つほどに鋭いと感じる(完全に師事したいくらいですう)。これこそ読み書きの歓びだ。」 と即座にFace Bookで反応したおいら。
おいらのレビューはJazz Tokyoに■置きましたが、さらにぶっちゃけたことを加筆するならば、このCDに彼らグループの魅力は65%しか出ていないということ。おれはね、スタジオでCDに収めることを前提とした時間的な制約をなくして、2枚組でもいいんだ、同曲2ヴァージョン収めてもいいんだ、そういう主張がある。・・・ちょっと言い過ぎた。一点だけ!このCDで「十五夜」はどこかトランスには至っていない演奏なのだと言いたい。
「ベースのつまびきに続いてカチャ、カチャと金属音、この打音の空間が支配するしじまの交感に彼らは揺れるトーンで漂い、じきに時間が静止する。響きの断片だけが置かれる。そこでは梵鐘が鳴っているようだし、遠く山の向こうからの空気が振動してくるようだし。密教寺の儀式とも東大寺の修二会とも地続きだ。14分38秒。」(タガララジオ17)
わたしはこの2010年9月のテイクを多少音質の統一感を損ねても、入れて欲しかった。おれがレコード会社を作ったら、このテイクだけでCDシングルとアナログを生産する。
Com-post 橋爪亮督グループ「Acoustic Fluid」クロス・レビュー■ を読む。
後藤雅洋さん。「Home」の旋律路線をもっと推し進めていい、NHKの大河ドラマのテーマとかに一発採用されてメジャーになるのが現実的に早いとわたしも思います。
須藤克治さん。さすがマンフレート・アイヒャーが聴いたら、的確に同じ反応をすると思いますね。白のカードの裏は真っ黒という指摘は、必要な批評だと思う。だけど彼らの歩みには無いものねだり、おいらも当初は彼らに物足りなさを感じていた。
柳樂光隆さん。なるほどチルアウトかあ。おいらにとって00年代以降のECMは終わってしまっていると思っていたのだけど、福島恵一さん原田正夫さんとカフェズミで「ECMカフェ」で1曲かけたときに、即興もECMも当初から響きをモンダイにしていた、なり、個ではなく匿名性のサウンドと考えのパラダイムがズラされたときに、終わったと思っていた「70年代ECMサウンド」がリアルに聴こえてきたのだけど、その感じを連想しました。
八田真行さん。ディスクガイドシリーズ#38「ピアノ・トリオ」でのたくさんの金言で、追っかけCD購入をしていますおいらですが、さすが。齢三十二にて寺島靖国の境地とは・・・、えええっ?そんなにお若いのですか。すげー才能だな。
林建紀さん。“ECMの理念「力は静から生じる」は白人イースト派の鬼才ジミー・ジュフリーが率いた前衛トリオの楽想にほかなるまいが”まで読んで電流が走った。“1950年代のニューヨークの白人イースト派の音楽とは決して無縁ではない”、まさに益子さんが選曲で示しているところではないだろうか。
原田和典さん。“管楽器にしても歌声にしても、そのサウンドは音楽家の体型を反映する”これまた金言だなあ。アイドルを視聴体験するところともつながるものがあるはずですね。
益子博之さん。右脳と左脳の話はあんまり信じたくないおいらなのですが、橋爪がニューヨークに行かなかった理由も、林建紀さんが“黄肌か”と書いたところも、“日本人が西洋由来の楽器でジャズを演奏することの意味と、自身のアイデンティティを常に問われ続けてきた”という橋爪のシンプルだが苛烈な姿勢と、そしてやはり「十五夜」が孕んでいる可能性と。あれれ、文章になってねえや。
村井康司さん。クロスレビューのトリを、さすがの過不足ない定置でしめている。ここまで読んで、8本のレビューがいわば交響曲のように響き渡ってきたのだった。こんなにクロスレビューで感動したのははじめてだ。
というわけで、音楽を聴いて読み書きする中毒になっているリスナーとしてとても楽しい時間を過ごすことができました!
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