Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2012年04月25日(水) |
「〈風景〉と〈建築〉に関するノート」耳の枠はずし 福島恵一 |
今朝5時22分にがたがたと部屋が揺れた。なぜか、満開の桜の下で防護服に身を包んだ4・5にんが作業をしている写真をFace Bookで見たのを思い出した。放射能はガイガーカウンターの音に聴こえるのだろうか。写真にグリッヂ音を聴くのはファンタジーなのかな。
ルシオ・カペーセLucio Capeceの『zero plus zero』に「気持ちいいとしか言えない」と騒いだ一言から、福島恵一さんにレビューをいただき■、さらに続編をいただいた。
「〈風景〉と〈建築〉に関するノート」耳の枠はずし 福島恵一 ■
<建築>の<風景>化、<風景>の<建築>化、を示す2枚のディスクがこれまた激しく納得。ちゃんとCDでいいオーディオで聴きたいが、コンサートの実況と言われてみるとまさにその空間性があるし、制作者の空間恐怖というのもとてもわかる。
むかしメルツバウを完全蒐集したいと思って毎日新譜が入荷すると言われてすぐに諦めたけれど、当時の自分の耳はメルツバウに空間性は聴いていなくて、空間恐怖というか、引きこもりたかったんだな自分は。
和楽器が自然現象と化する、風?、地鳴り?との対比で、の、西洋楽器。
ミシェル・ドネダが打楽器のル・カン・ニンと草むらを走り過ぎながら(“移動”を想像した)演奏して、な、なんと録音技師ふたり!がついてまわって録音して、それが技師を含めた4にん名義の作品『Montagne Noire』(1999)になって、パッケージも透明なポストカード大のプラケースで、この盤との遭遇でわたしの耳ははじけていた。それまでの即興盤が吹き飛び・・・そのはじけた耳で聴きなおせばまた良かったのだろうけれど・・・耳は放たれた気持ちになっていた。
そ、外の空気も音楽なんじゃね?
狭山にキュルキュルとガシャガシャとブンブンとハシャハシャが混じった音響を放つ工場があって(近隣住民にはただの公害だろう)、現金輸送夜勤の出勤時にくるまでエヴァンパーカーの循環奏法盤をかけながら踏み切りのカンカン音を通り過ぎてその工場に近づくと、いろんな音が音楽になって気持ち良かった。
それはジョン・ケージのミュージサーカスの発想に近いんだろう、と、その名は浮かんだ。
それはさておき、『zero plus zero』をクレジットを見ずに懐かしさと心地よさにうっとりと聴いて、そこに制作者の存在も感じ(John Eylesのいう人間性humanity)つつも、制作者も出来上がりに驚いていたであろう?音の存在感・・・
福島さんが「音が演奏者の手を逃れ、指の間から溢れ出てしまうことが、むしろそこでは求められているのだ(もちろん、それは偶然に頼ることとは異なる)。」と書いた部分・・・
人音/物音という分別または二項対立を、越えてるのか導入されてないのか、
幼稚園ときに的場せんせいが弾いたオルガンの空気穴から漏れるズスー、スー、クスーという音に。祖父の仕事場で手回し円盤金属ヤスリがキキキ、ズンズン、ジギャーとたてる音に。川越のドンキの2Fフロア全体がゲームセンターになっているワンワンとした轟音に。小金井のパチンコ屋の店頭で聴こえる膨大な集積音に。なんかふつー出会えない得体の知れないもんがそこにある!
たしかに・・・。福島さんが書かれているとおり、演奏者の動画を見たり、シュルティ・ボックスの仕組みを知ってしまうと、ちょっと魔法が少なくなってしまうですね。わけもわからずジャケを見ていたのとちょっと違う感じに聴こえてしまう。
しかしながら、わけもわからずに聴いて、ヘッドホンを外しておののく部屋のパソコンのうなりや自分のワイシャツの動く音や郵便屋がバイクで近づいたり自転車がアスファルトをこする音とか外の気配にびっくりしてしまう体験は、この盤やオーブリー盤ならでは、だ。
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