Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
DiaryINDEX|past|will
R.I.P. Paul Motian 1931.3.25 ー2011.11.22
『ワルツ•フォー•デビィ』で叩いているからジャズ•ファンには最も聴かれたドラマーだったろうか、伝説のビル•エバンス•トリオは三人とも革命的奏者だった、とか、何度も死んだとばかり言いつけられるJAZZはついに、とか、書き出しそうになる。この春先は、聖地Village Vanguardで若き覇者エリック•ハーランドと週替わりで叩きあっているスケジュールが見られて息をのんでいたばかりじゃないか。
ポール•モチアンが80年代初頭に2人の俊英ジョー•ロヴァーノとビル•フリーゼルと組んだトリオが、その後の現代ジャズの可能性を開いた。この人選にパット•メセニーが絡んでいたのは唐突な気がしていたが、モチアンの訃報を受けてFace Bookで彼らの初作品「It Should've Happened A Long Time Ago」にリンクされたのを聴くと、なるほどともに夢見るような資質において同じだったかと、気付かされている。このトリオで、2人の俊英は大御所に成長したのは明らかだし、モチアンもこれを拡大したエレクトリック•ビバップ•バンド(EBBB)を90年に開始して、それが現代のNYジャズシーンを文字通り形成した。
70年から2年滞在した日本で失意にあったゲイリー•ピーコックは、菊地雅章らと2枚の録音を残した(これを聴いてECMアイヒャーは録音オファーを伸ばすが実らなかった)。ピーコックの孤高は、ラファロ以降の、であり、アイラーと革命同志であったところか。時を経て、90年に菊地とピーコックはトリオを構想したときに「rubber drummer…時間を伸び縮みさせられるのはPaulしかいない!」とモチアンを招いてテザート•ムーンが結成されている。
つまり90年にはモチアン・メソッドとも言うべきジャズの新風は用意されていたということだ。ミュージシャンたちはいつの時代も獰猛に新言語を察知しあっている。ロヴァーノに続いてはジョシュアやマラビー、チークらが、フリーゼルに続いてはローゼンウィンケル、ムートシュピール、モンダー、ブロらがモチアンのバンドで次々に変容開花していった。
R.I.P. Paul Motian 1931.3.25 - 2011.11.22
『ワルツ•フォー•デビィ』で叩いているからジャズ•ファンには最も聴かれたドラマーだったろうか、伝説のビル•エバンス•トリオは三人とも革命的奏者だった、とか、何度も死んだとばかり言いつけられるJAZZはついに、とか、書き出しそうになる。この春先には、聖地Village Vanguardで若き覇者エリック•ハーランドと週替わりで叩きあっているスケジュールが見られて息をのんでいたばかりじゃないか。
ポール•モチアンが80年代初頭に2人の俊英ジョー•ロヴァーノとビル•フリーゼルと組んだトリオが、その後の現代ジャズの可能性を開いた。この人選にパット•メセニーが絡んでいたのは唐突な気がしていたが、モチアンの訃報を受けてFace Bookで彼らの初作品「It Should've Happened A Long Time Ago」にリンクされたのを聴くと、なるほどともに夢見るような資質において同じだったかと、気付かされている。 このトリオで、2人の俊英は大御所に成長したのは明らかだし、モチアンもこれを拡大したエレクトリック•ビバップ•バンドを90年に開始して、それが現代のNYジャズシーンを文字通り形成した。この90年には菊地雅章はゲイリー・ピーコックとトリオを構想したときに「rubber drummer…時間を伸び縮みさせられるのはPaulしかいない!」とモチアンを招いてテザート•ムーンを結成している。
つまり90年にはモチアン・メソッドとも言うべきジャズの新風は用意されていたということだ。ミュージシャンたちはいつの時代も獰猛に新言語を察知しあっている。ロヴァーノに続いてはジョシュアやマラビー、チークらが、フリーゼルに続いてはローゼンウィンケル、ムートシュピール、モンダー、ブロらがモチアンのバンドで次々に変容開花していった。 今年届いた2枚、共演することで伝承されてゆくジャズの核心が聴こえる。
多田雅範(Niseko-Rossy Pi-Pikoe)
※掲載する2枚は
ザ・ウィンドミルズ・オブ・ユア・マインド / ポール・モチアン (ボンバ・レコードBOM25011)
ライヴ・アット・バードランド / リー・コニッツ,ブラッド・メルドー,チャーリー・ヘイデン,ポール・モチアン (ユニバーサル)
|