Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2010年06月17日(木) |
福島・原田・多田セレクトECMベスト@ECMカフェ を味わう (2) |
福島さん、原田さんのECMベストのリストを見ては、 アルバムタイトルの文字を眼球が追うだけで、音が響き渡るばかりの日々が続いております。 こんなに幸福な感情に包まれての2010年6月。来月には「ECMカタログ」河出書房新社が刊行されます。
おいらがポール・ブレイの「フラグメンツ」を入れておれば福島原田多田の3冠達成盤だったのかー! おお、原田さんもビョルンスタの「海」を掲げていただけるのか・・・号泣。 福島さんがメセニーの「ウィチタ」を挙げる!ただしい、ただしすぎる・・・
「ECMカタログ」のテキストを書くのに、ボスから「浮遊感」が使用禁止になっていたのを初めて知りましたが(!)、 なぜECMは浮遊するのか。浮遊する感覚は何に由来するのか。
それはタイコなんだな。ジャズの革新はタイコの革新でもあったかどうかはわからんけど。 ECMを演出したタイコは、 ヨン・クリステンセンとジャック・ディジョネットである。高速シンバル打法で軽快にサウンドを走らせて揚力となったわけだ。
ディジョネットとクリステンセンは、出現の系統が違う。 ディジョネットはエルヴィン・ジョーンズ、トニー・ウイリアムスの潮流を受けて止めて登場してきた弾力と跳ねがある。 一方、クリステンセンは、これはサニー・マレイの北欧亜種と言うべき進化形である。
ポール・モチアンが80年代以降に顕著に果たした、タイムの伸縮を機軸とした革命はまた別に論じられて良い。 ディジョネット、クリステンセンが演出したECMが器楽演奏的であるのに対して、 モチアンの音楽は動きながらパスまわしをするサッカーの美しさに次元を上げていると感じられる。
ジミー・ジュフリー盤のECMリイッシューが、「アイヒャーは父の名を明かしたのだ」であるのは、 その室内楽的な審美、抽象美とともに、ドラムレスであることが重要なポイントである。 ドラムの「無」、は、ドラムの「遍在」、を、示している。
ECMの音楽、と、浮遊感、というキーワードは、このあたりの思考によって構成されている。
(おもいでにひたる午前3時)
いまでも目に映るんだけど、21さいの時、ECMを全部聴くには同好のひとと出会いたいものだなあ、と、 スイング・ジャーナル誌に「ECMのサークルを作ります」とハガキを書いたのだな、書いたけど数日ベッド脇のテーブルに放置、 投函をためらうおいらだった、どうしたものかなー、ええいままよ、と、武蔵小金井駅前のポストに出しに歩いていったこと。
掲載されて連絡があったのが5にんと新宿の喫茶店のマスター朝隈さん。
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