Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2008年04月29日(火) |
晴れた新宿御苑を赤いリュックでマイナスイオン散歩しながら図書館めぐり |
『アルゼンチン・タンゴ大演奏史』10CDなんてのを光が丘図書館で借りる。
いけね。家族のケータイ代を支払わなければ。 あわててCDを売りに出かけて、ついCDを買って帰って来てしまう。だめじゃん、それじゃ。
スティーブ・キューンの『ジ・アーリー・セブンティーズ』という、実際トホホな、しかしながらECMにとっては重要な作品が昨年復刻されていた。 このチック・コリアのカモメと弦楽四重奏団が出会っていた感覚って、おれは知らなかった。 ECM初期のミッシングピースを聴いたような気になった。 アイヒャーがスティーブ・キューンをスカウトするのは明白で、そのキューンに『トランス』を作らせておいて、当時のキューンの試行をアイヒャーは剽窃したのではないか?という、げに恐ろしい仮説を思い立つような4月の深夜である。
またCDを売りに行く。 かねがないので四谷図書館まで歩き、6がつにヴェルディのオペラ『椿姫』を観るのでCDを借りる。 無料開放していた新宿御苑を散歩して太陽を浴びる。
ユニオン新宿でたくさんのCDを試聴してたいへん勉強になる。 おいらが昨年ベストに挙げたネメス盤で褒めたリオネール・ルエケがハンコックとショーターを参加させて華々しくブルーノートデビュー作を出した。が。ルエケは主役にしてはならない才能なのに。あーあ。天下のブルーノートはまたしてもジャズをスポイルするのだ。 なんかカサンドラ・ウイルソンの作品で才気を見せていたブランダン・ロスが『コスチューム』とかいう駄盤リーダー作を出した経緯と似ている。ブランダン・ロスはその後ミシェル・ンデゲオチェロの作品に登場したのは大吉。
タワレコ新宿でもたくさんのCDを試聴する。カラヤンとグールドの共演ライブ音源なんてあるのか。面白かったー! あと、黛敏郎の「弦楽のためのエッセイ」(1963)に度肝を抜かれる!■
げ。 三善晃作品集!なんてのが!■ 「響紋」の初演1984と再演1989が収められてる。 再演1989の指揮はマエストロ井上道義だったのか! で、これは迷わず買い。1050えんだからいいよね。
『ティボール・ヴァルガへのオマージュ』4CDの 歴史的録音とくくられた4枚目の録音は1935年、38年、47年の録音を聴きながら杉並中央図書館へ向かう。
杉並中央図書館で山田耕筰の歌曲集を4枚借りてきたら、部屋に小包が届いていて山田耕筰の作家論であった。
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『毛利元就―「はかりごと多きは勝つ」』 秀吉が、そして家康が畏怖した男 “戦闘で信長を凌ぎ、調略で秀吉を越え、持続力では家康を陵駕。二十歳の初陣の日から75歳で没するまで生涯現役、不敗。一代で戦国最大の大大名に急成長を遂げた知将、毛利元就。その堂々たる晩成の秘密を多角的に探る。”
謀(はかりごと)
みんな、ジャズトーキョーにおいらが書いたメセニー新譜レビユを読んでくれたか? これにボーナストラックをつけて2680えんで売るのもどうかと思わされます。 ビックネームをたたいて、マイナーをよいしょする判官贔屓(ほうがんびいき)というなかれ。 年末にほめたケイ赤城トリオ盤だっておいらはいい仕事をしたと思うんよ。 おいらが3度熟聴して即刻売り飛ばしたデビット・トーンECM盤、が、マガジンで年間ベストに挙げられたのは、メアリージェーン派としては実に不愉快な出来事だった。スクリューガンをもっと早期からシーンに問うべきではなかったのか。あんなくされプログレにせもの構築ブツを若者に示すことはジャズの未来にとっては暗黒である。おいらは昨年で長年耳を育ててくれたマガジンをしっかり卒業したと思っている。 ありがとう。そして、さようなら。 アイヒャーがスクリューガンの何たるかを識り、トーンを通じて配給する合意をした経緯は想像に難くない。しかし、アイヒャーはことリアルジャズに関してはしくじるのだ。ロスコーミッチェルのECM盤でウイリアム・パーカーをあんなふうに響かせたのはアイヒャーの責任だと思う。あいつは70年代からそうだ。
ぜひおぼえておいてほしい。年間ベストにモチアントリオ2000+2のヴィレッジヴァンガードライブ盤を挙げたのは、おいらと湯浅学さん(CDジャーナル)だけだったということを。クリス・ポッターをしっかりと把握していたのは、おいらと菊地雅章とマイケル・ブレッカー(インタビュー)と後藤雅洋さん(サイト)とユニオンの四浦研治(無料冊子)だったということも。 このところおやじカンタービレ状態で、クラシックのライブ評をまとめる作業をしている。こっちのジャンルは素人ぶって書いてはみるけれども、おいらの耳の正しさは自分が、自分だけが、よくわかっておるのじゃ。さ来月はヴェルディの歌劇『椿姫』を観る。 いずれわたしは音楽監査人を自称する心づもりでもあり、時間が許せば音楽雑誌の記述やライナーなども監査の俎上にのせる。76ねんモノの高橋悠治のゴルトベルクを聴きたまえ。はっきり言って、耳の感覚の視界は一変する。たまたま聴いたジャレットの青春の怪演『心の瞳』のダメさ加減やブレッカー遺作のハンコックの奇跡的な演奏(トラック1)メルドーの健闘ぐあい(トラック2)、というふうに耳の焦点があうような心持ちになるようではないか。
現代音楽の作曲家山本裕之の『カンティクム・トレムルム』を聴く。 ここまで冷徹な語法フェチに聴こえるならおじさんは許す。表現したい内面とかエキゾチズムとか生きざまとか孤高も崇高もないのだ。それぞれの楽器が記譜法に従って響くとき、演奏者のアーティキュレーションという操作できない要素も折り込み済みにして、アンサンブルは成立するか/しないかの分岐点をミクロに探査するかのようなのだ。ある意味、実験くんというか。生楽器だけを用いている厳しい試み。
どうでもいいがおいらは寝る。
夏になると薪能(たきぎのう)■というものがあるのか!
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