Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2008年04月12日(土) |
メルドー・トリオ・ライブ マッテオ・ダ・ペルージャ |
ブラッド・メルドー・トリオ・ライブ、2枚組、を、早々に入手して聴く。 今夜のぼくは思索はしばらく置いといて、とはメルドーは言わないが、 ベースのグラナディアとタイコのバラードにライブ会場は外堀を埋められて2008年のメルドーがえいやっと不穏をちりばめている。 (2006年のヴィレッジ・ヴァンガードのライブ録音ですが)
だいたいわたしのまわりには、複数の再生装置で3枚の同一音源を同時に再生させてCDプレイヤーのわずかな速度差によって音響が旋回し始めることに自身の意識まで旋回させて恍惚としてしまっているやからとか、ジャレットトリオとマサダのCDを同時再生させて「メディアではケンカしてるけどこの共演は見事なものだ」とのたまうやからとか、そんなものばかりである。
編集CDRの思想というものは、曲の配列による音楽の未踏のロジックを味わうところや、その60分間にはすべてのトラックが感覚の残響として混ざり合ってしまうところに立脚するものだろう。
マッテオ・ダ・ペルージャ■。 CDタイトルには600年前の異才、とある。おれたちにとっては戦国時代だ。 1400年ごろに活躍した、マショーとデュファイをつなぐ時代に生きた作曲家、で、突然変異的に独自の記譜法を用いて音楽を書いたといわれる。半音階的な進行、声楽のニュアンス、細かい装飾音、楽器の間奏、を、突如書き記すという態度は、作曲者自身が不運であった背景(孤独だったとか?)によるとも書かれているが、 それってまさしく前衛的な態度ではないか。 15世紀のオーネット・コールマンと言ってみたい誘惑にかられる。 古楽のフォーマットに隣接するようでいて古楽を聴いているような感じがしない。かといってヒーリングでもアヴァンギャルドでもない。 演奏と声楽の再現する態度は明らかに現代のもの。
つづく
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