Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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3月2日オペラシティでの『ヨハネ受難曲』のレビューの第一稿を仕上げた。最終段落をこう締めた。
「初めにコトバがあった、コトバによって殺されたかたくななひとりのオトコに対する罪の意識、おのれの野蛮さを肯定もするように罪の意識を定位し自分たちの社会や文化の“起動エンジン”にしている、というのがこの宗教だろう。「ヨハネ受難曲」の透明で崇高なる表現の裏側には、血塗られた野蛮さの裏打ちがある。この日のコンサートで聴いた透明さと崇高さ、に、わたしの耳はミシェル・ンデゲオチェロの『ザ・スピリット・ミュージック・ジャミア』(2005)と小沢健二の『毎日の環境学: Ecology Of Everyday Life』(2006)との同質性を感じている。それも直感的な断定に近い。エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団とこの二人の姿勢や思考の同質性について、は、これから考えてゆきたい。」
小沢健二との同質性、は、かくかくしかじか、と、書くことではない。
ここに小沢健二の最近の言葉が伝えられている。>■
オザケンの回答はこんな意味のこと。(メモがなく思い出して書いたものなので注意。文責は松永) 「さほど転換したという記憶はない。“ほんとうのこと”って何だろう、ということに興味があるが、少なくとも日本に住んでいるかぎり、“ぼくが見ているようなもの”になれる自信はないし、なれなかっただろうと思う。たまたまいろんな巡り合せで、だんだん“ほんとうのこと”が見えるようになってきた。大きな転機があったのではない。もともと「どっかに光があるんだけど」と感じていて、それを探した結果にすぎない。カローラのCMを受けるときに、トヨタという会社を根本から考えてみるだけの力は僕にはなかったが「何かがおかしい」という違和感だけはあった。だから、大きな方向転換かといったら、そうとも言えない。お金は必ず“灰色”と関係がある。足を洗ったわけでもないし、驢馬に乗っているわけでもない。“見えるもの”に向って一所懸命に歩いているだけ。大きく転換した感じがないので、難しい質問です。」
こんなダイレクトにわかる言葉だった。転向でも何でもないじゃん。 たとえば彼が連載している創作童話「うさぎ」を文学的な価値体系で評価することに、ぼくは意味を見出さないし、「一所懸命に歩いている」のがわかるテキストだと思う。ぼくはぼくの言葉で、ぼくはぼくの生活で、なんとかするだけなのだ。
「ほんとうのこと」は、オザケンの表現ですでに伝わっているし、彼にもっと音楽を制作してほしいなど希望することもない。 「ほんとうのこと」への歩みは、ぼくはぼくでしている。
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