Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
DiaryINDEX|past|will
2008年01月18日(金) |
25日はいよいよ三善晃作品が。 |
秋葉原。再開発されたあたり。
インフルエンザから復帰してから。 「ロヴァ耳日記@練馬平和台」を「Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review @ Tokyo」に更新することを検討しています。
年間ベストについての作文■から始まる、として、「左から、藤原基央(バンプ・オブ・チキン)、ポール・マッカートニー、マーク・ターナー、三善晃、小沢健二、渋谷毅。」と記したこと、この個々のミュージシャンではなく、この空想、に、ぼくのあたらしい一歩が始まったような気持ちになっている。
一歩もひいてはいけないラインを地球の裏側にいる友だちとさぐっては、毎日黒板消しをそうじする。
18日。 都響■の『日本管弦楽の名曲とその源流』を聴いてきた。 上野駅公園口前の東京文化会館大ホール。■ たくさんのはげた後頭部をした60年代に青春を送った負け組にならなかったおじさんたち。激動の日本経済を泳ぎきって、伝統ある東京文化会館。 武満徹。 ストラヴィンスキー、春の祭典、の、巨大さ、を、昨年の秋に知った。いままで知らなくてごめんなさい。 「地平線のドーリア」をCDでいままで4回くらい聴いたことがあったけれども、どういうわけかおなかがすいてしまうだけの(それってドリアに反応してるんだ?)恥ずかしいリスナーでありました。 「弦楽のためのレクイエム」を聴いて、ストラヴィンスキーがどのように武満徹の弦楽のアンサンブルの動かせかたに感嘆したのか、この日のライブで手にとるようにわかった。なんか次々よくわかって手持ちのタケミツ作品への聴きかたが一気に視界が開けたかんじ。この世のものとは思えない、ような、いい出来の演奏ではたぶんなかったような気もするけど、この作品が保持している音楽のヴィジョンは明快に示した演奏だった。 ベルクが何考えてたかもわかったような気がして、わくわくして同時にいとおしい気持ちにほおがゆるんだかんじになりました。 武満が書いた「系図―若い人のための音楽詩」は後退といったリニアな定規ではなく、三善晃へのリスペクトを含んだ、作曲家自身が聴きたい響きを谷川俊太郎の詩にちからを借りて、おそらく自分の子どもとか孫に向かって描いてみせたものとして感じる作品。
25日はいよいよ三善晃作品が。サントリーホールで。 若いひとで、現代音楽なんてくそくらえと思っていて、ケヴィン・シールズの恍惚とか、たゆたうマーク・ターナーとか、この世のものとは思えない、ような、響き、の、現出、という可能性、に、賭けて。チケット、もうないのかな?
|