Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2007年11月26日(月) |
21日に発売された三善晃の『レクイエム』 |
21日に発売された三善晃の『レクイエム』■。
こ、こんなすさまじいコトバによって構成されていたのだ。 おれ、初聴き当時、サウンドの音とイメージだけでこの作品を傑作だと判断していた部分が大きくて、 どんなコトバが合唱団によって空気をふるわせて(歌われて)いたのかは知ってたよ、 知って、たよ、 今回は、コトバの背景がみえてきて、いやおうなく、このコトバを発した場所に連れて行かれるようでもあり。
46さいになって、すこしは聴こえるようになったのだと思う。 感極まってライナーにある三善晃のテキスト(新稿)を写メールにしようとしたら音楽と感応したのか画像がこのように乱れた(こんな現象ははじめてだ)。
このライブ録音の現場にいたひとからの話では、観客席からはすさまじいオーケストラの音で合唱団の声がかき消されてしまって、必死の形相でくちを開いている合唱団が見えて、何が歌われているのかわからなかった様相であったとも。 いや、歌はデシベルでは聴こえていなくても、たしかにあったのだ。 コトバもデシベルでは聴こえていなくても、たしかにあったのだ。 そういう、状況も、また、すさまじく、正しかったのだと思う。
このCDの音源を手がかりにして(充実したライナーテキスト群)、
おれの場合、イラクの兵士が遠隔操作されたアメリカの兵器で瞬時に焼かれ死ぬ映像、を、見る、おれ、の現在、を、ジジェクをだしに?不自然に形状が揃ったサツマイモをスーパーで買っているおれ、の、現在、
何度か書いたようにおれにとっての三善晃は、あの生命体のような光のゆえんだ。オーケストラや合唱のスコアによって起動されている、はず、だ。スコアの中にひそんでいるはずだ。そこには指摘しうる分析しうる模倣しうる技法・技術があるはずで、ところが誰もその技法を継承していないのはなにゆえか。表現の必然という呪符で、なんぴとも持ち出せぬ、というのか。その謎、が、おれにとって三善晃を神格化させてもいる。いったいなんでこのような音楽の現象がホールの中に起こるのか。おれが音楽の神さまと奇を衒って言うのではない。あの生命体のように光る響きの正体。 参照点となるような手がかりはこの三善の意識のありかたではないだろうか。
三善は、歌詞は忘れてほしい、それが自らの力で、聴衆の中によみがえるために、と、願ったという。(『レクイエム』に対して)
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