Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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「脳は変奏する」
わたしが書いているたったひとつのことは、生きているわたしたちの脳は音楽を変奏するということなのだ。
さっき夜勤明けで熟睡した夢の中で、次々と閉まってゆく午前0時の国道沿いの食堂街をあえぎながら走って何か注文できないとメシにあたらない、ラーメンがあるぞ、でもとんこつだ、かつおのたたきの定食、うう、いまいち、はまちのさしみと餃子の定食、それいい、おばさん注文たのみます、厨房からオヤジが「おう、ラストオーダー」と怒鳴る、ありがたし、なんだオヤジ、小金井の酒屋のオヤジじゃねえか、と、カウンターに座ろうとするのに、おばさんぼくがすわろうとするカウンターにうな重おいたりインスタント焼きそばをお湯を入れて置いたりする。こまっているとケータイに着信があって、相手は誰だかわからないが、サイトのミュージサーカスはジョンケージだろう、というので、あ、これは吉田秀和だ、と、思い、わたしたちが言いたいたったひとつのことは脳は変奏するということなんですよ、ぼくが聴いたゲルギエフのストラヴィンスキー春の祭典はすでに変奏であるのと同時に、幼少期に円谷プロ怪奇大作戦ウルトラマンのBGMで現代音楽のエッセンスでディズニーのサントラ作用で聴いてできたぼくの耳が聴く変奏、今日の記憶明日の記憶と経年で予期せぬ様態を見せる変奏、とかですね、と、漠然と説明をしなければならないはめになっている、おなかがすいているのに、でも、ケータイに演説しながら、ああそうなんだ、と、ひとりごちながら目がさめた。
ぼくの赤血球も音楽を聴いて音楽を変奏しているのだ。と、起き上がりながら言い換えてみて、その表現はちょっとガキっぽいかなと思う。
今朝は、パスコの十勝バタースティック2本と牛乳だけで、吉田秀和全集3「二十世紀の音楽」(白水社)の「サイバネティックとチャンスオペレーション」「二十世紀音楽研究所にふれながら」を読みながら床についたのだった。そしたら、そんな夢をみた。吉田秀和も同じ夢を見ていたと思う。
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