Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2005年11月21日(月) |
平井玄著『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』(太田出版) 〜 『スピリチュアル・ユニティ』 |
911以降に読みたかったのはこういう本だったのだ。
(ふふふ。でも、ぼくはへいき。ぼくは藤枝静男のお茶碗になっているから。いつも高野山の参道をぼくは歩いているから。)
NHKブックスの『マルチチュード〜<帝国>時代の戦争と民主主義』上下刊は、言語的な事後承諾めいた確認ができるのに対して、平井玄の『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』は、たとえばぼくがうろつきまわっている平和台や銀座7丁目や池袋警察署や葛西臨海公園や新宿花園神社や吉祥寺ロンロンなどで見慣れてしまった風景から抑圧的なもの、それは概念とか文化とか、を、削いでくれる。ぼくがあるいている足の感触から麻痺を解いて皮膚をあらわにしてくれる。
この本が真っ赤なのは。「お金は血液なのだ」という認識であるように思えてならない。
わたしがECMコレクターをしながら、一方で先鋭的なロックに対抗できる同時代的なジャズを希求していた26さいのとき。 アイラーの『スピリチュアル・ユニティ』に出会った。 『スピリチュアル・ユニティ』をアイラーの代表作のひとつに挙げる言説はどこにもなかったように思う。 ECMの緒作からゲイリー・ピーコックの西洋と禅を止揚するようなベース感覚に気づいていたので、アイラーの初期にピーコックがトリオで演奏していることに興味を持った。 あまりもの異様な、聴く者の脆弱さをせせら笑うような演奏に、目の前が真っ黒になった。 音楽を聴いて、視界が真っ黒になったことはこの時だけである。
アイラーの本質が、ファンキーなものであったりヴードゥー的なるものであったりするを理解するのはずっとあとである。
それから10年後。音楽評論家の山口孝さんにジャズと即興について、銘器パラゴンから実際にレスターヤングや内田光子やディレク・ベイリーや菊地雅章やルイ・アームストロングやジャンゴ・ベイツや小沢健二やスティーブ・レイシーの音を全身で受け止めながらのトークセッションというより感覚の伝授をいただいた際に、ルイ・アームストロングのホット・ファイブとともに挙げられたのが『スピリチュアル・ユニティ』だった。
さらに、マンフレット・アイヒャーの自伝的なテキストでは、ECMレーベルを駆動する要因に『スピリチュアル・ユニティ』のようなものを録りたい、もっと理想的なレコーディングで叶えたいというものがあったことにも、まさに精神的なユニティを感じたものである。ヤン・ガルバレクの最初のレコーディングにアイラーのガイストが現れているのは、ただの影響・因果関係ではない。
平井玄の、この『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』の最終章に言及され、鳴り響く音楽は『スピリチュアル・ユニティ』である。 お金は血液である、という寓意と、『スピリチュアル・ユニティ』のアイラーの叫び、と、アントニオ・ネグリの言説、と。
(ふふふ。でも、ぼくはへいき。ぼくは藤枝静男のお茶碗になっているから。いつも高野山の参道をぼくは歩いているから。)
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