Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2004年10月16日(土) |
音楽とは、何であろうか。ババアの死の淵に引き込むようなのも。 |
音楽とは、何であろうか。 魅惑的な尽きない謎である。 音楽という指示言語が機能する社会において、認知されている音楽が音楽である。 社会は、最小単位は“あなたとわたし”である。あなたとわたしが音楽だと認識を共有できればそれは音楽である。 すると、わたしひとりが思っていてもそれは音楽ではない。
『七つの子 野口雨情作品集』を聴いて、わたしは深夜に独り、「こ、こりゃー、ムーンドックの世界ではないかー!」と、天を見上げた。
ギタリストの平井くんとジョー・マネリやジェリー・マリガンやアジカンを聴いたあとに『七つの子 野口雨情作品集』をかけると、 「この演奏はすごい。さすが、戦前の録音ですねー、見事なまでに和音、ハーモニーが排除されたユニゾンによる演奏。和音という概念が無い演奏意識の驚異。渋さ知らズがあれだけウケたのも、意図的にハーモニーを排除したサウンドだったことですよね、欧米人に刺激的だった点は・・・。」
なるほど。そいや、ムーンドックにもあてはまるし、ムーンドックの奥さんは日本人で彼女の歌声をそのまま録音してたしなー。
「ははは。このタイコ聴いて、オマー・ハキムのほうが上手い、と、言っても!」
音楽とは、何であろうか。 音楽の神様はミューズというおんなの神様であることは暗示的である。 謎めいた蠱惑的な成熟した女性の微笑み。 成熟してなくてもいい。 幼女の愛くるしいのも、ババアの死の淵に引き込むようなのも。
・・・あ、それで、近藤譲著「<音楽>という謎」を読んでいます。 シューベルトとビートルズの間、という章で、芸術音楽とポピュラー音楽を論じておられまするけれども、うーん、50年代ごろの古い出版物で書かれていたようなことかも。 ・・・現代音楽とエリート・コンプレックスは相関があるのは近藤さんに言われなくてもわかってますー。
ジョー・マネリはアメリカに亡命してきたシェーンベルクの弟子に教わって微分音の教授になった経歴があるのだけど、これまでブルーズ感覚といったものに依拠して聴いてきたマネリの演奏について、“1オクターブ72分節、1音5分節”を訓練したという前提で聴いた場合に、そこに音の確信(どこに音を置くかという技術)が見てとれて、その抑制がブルーズ感覚という情動に過剰な緊張感を与えている実感を持ちました。
平井くんいわく、「マネリの演奏を聴いたあとでは、どんなサックス奏者の演奏でも“ドレミとフラジオの単なる足し算”にしか聴こえない」。
言えてる。
チャーリー・パーカーとジョー・マネリを二極の座標軸としてジャズ・サックスの歴史は解消されてしまうのである。
ドルフィーの頭をごつんごつんぶつけている感覚、アイラーのブードゥーとカリブの明暗、エヴァンパーカー、コルトレーン、ブラクストン、デズモンド、コニッツ、ショーター、ガルバレク。しりとったりー。
さあ、どうするマーク・ターナー。でもやっぱりミシェル・ドネダ。・・・何が書きたいのかわかんなくなってきた。
『七つの子 野口雨情作品集』、これは衝撃的だ。これは今すぐアマゾンで購入しなければならないです、みなさん! わたしの今年のベスト1かもしれん。
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