Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2004年05月28日(金) |
CDR『雪ヶ谷日記 2004.5.23』・渋谷毅のプロフ |
現実逃避をするためにはモーツァルトの488ばん、ギーゼキングのピアノで聴く。このピアノ、あんずの皮がはじけるようなトキメキを起こす。 なぜにかミッション系だった天使幼稚園時代を想い出して、うっとりしてしまう。でも当時これを耳にしていたとは思えない。
ニセコアンヌプリに美しいものを見た日。羊蹄山のふもとのまっかり村の、早朝、細川たかしの銅像の前でコンビニ弁当をほおばった。羊蹄山をバックに銅像からヒット曲が次々と街に響きわたる。たまたま居合わせた観光客や散歩の年寄り、徹夜えっち明けのカップル、近所の鼻たれガキ3名、いつのまにみんなで鼻うたのようにくちずさんでいる。「きたあのー、さかばどおり、にわー」。
単に車の中を快適に過ごすためのCDR。23日に作っていたので、その忘備録として。 なにげなく編集してたけど、すげーハマって聴いている。友だちにも聴かせられるようにタイトルをつけてライブラリーに入れときます。
CDR『雪ヶ谷日記 2004.5.23』
1. 東京の屋根の下 / 灰田勝彦 ※CKBライブの日とか、このところ口ずさんでいた曲。終戦直後に「若いふたりは幸せだよ」とフヌけた声で歌うことに、よく考えるとだんだん腹が立ってきた。いい気なもんだ。戦死者のことを想いつつ、複雑な心境で聴くべき愛憎入り乱れる、これもまた名曲。 2. 夜明けのスキャット / 由紀さおり 1969年 ※あー、ガールフレンドをつくって昭和44年の布団の中に行きたい。この曲のヒットに続いてリリースしたのは「天使のスキャット」で、いずれも作詞・山上路夫、作曲・いずみたく、編曲・渋谷毅。1969年7月にリリースされた「天使のスキャット」のほうは、6月にギリシャのアテネで行われた“シャンソン・ド・オリンピアード(歌のオリンピック)”で約10万人の観衆の前で歌われ、世界各国40名以上の歌手たちを押しのけて最優秀歌唱賞を獲得。その場に同行していた服部良一(作曲家)、安部寧(評論家)は感激の余り涙したという。「天使のスキャット」は「夜明けのスキャット」の二匹目のどじょうだったわけだし、「夜明けのスキャット」が当時の世界に知られていたら音楽史の軌道はズレていたと確信するぞ、哲学の軌道までズレていたぞ。 3. Blue / Jacob Young from『Evening Falls』(ECM1876)2004 ■ ※瞬時にトロけるさすがECM盤1曲目。このノルウェーのギタリストが放つ詩情はパット・メセニーだ。“ノルウェー種だったメセニー”という成田正さんの記事とまったくつながるのは単にレーベルの嗜好ではないでしょう。この曲の感動を支えているのはバスクラの哀しみです。 4. Cherish / The Association 5. Windy / The Association 6. Walrus Walrus / あがた森魚 (1:39) 7. 雪ヶ谷日記 / あがた森魚 (12:41) 8. 冬のサナトリウム / あがた森魚 (4:09) 9. The Song Is You / Keith Jarrett Trio (17:38) from『Still Live』(ECM1360)1988 ※“70年代ピアノソロキース”のもっとも美しい必勝パターンを凝縮したようなイントロを持つスタンダーズ初期の名演。冒頭の2分弱でこの曲のエッセンスはおしまい。しかし、デジョネットとピーコックがアホのように飛ばしまくり、ジャレットが再三ブレーキをかけるものの止まらない止まらない、あっけにとられて笑える、が、この17分もの疲れる旅の終わりに冒頭のパターンを予期せぬ浮かび上がらせに持ってくるジャレットに唸る。 10. HOW TO GO / くるり ※シメには2004年のこの曲。加速ばかりする約束履行能力の欠如の悩み、を、慰撫してくれる。自己の一貫性からの解放、という事態が現代のメインテーマに感じる。自分さがしはむろんオールドスタイル。あなたは“誰”なのか。場所と対人関係と時間と気分で、“一貫していないこと”が起動エンジンになったのだろう。村上春樹の小説を斉藤環が解離現象をキーに説いていたが、それは進化への適応なのだ。分子生物学の入門書を読むと、新種の90%以上は未来につながらない生物の進化ルールを知る。わたしは逸脱と不意打ちと意外性だけをひたすに愛する。(と、書いてみたかっただけかも・・・アーメン)
渋谷毅のプロフ (参考:いずみたくの作品集に掲載されていたものです)
ここで編曲を手がけた渋谷毅についても触れておきましょう。1939年11月3日東京都生まれで、いずみたくと出会ったのは中学2年生の頃、うたごえ運動に参加していた兄を通じてでした。芸大付属高校2年生の時にモダンジャズに目覚め、その頃からピアノ演奏や編曲を手伝うようになります。東京芸術大学作曲科へ進学するとさらにジャズ熱は高まり、ビック・フォー、沢田駿吾ファイヴ、大矢隆敏グループなど様々なバンドで腕を上げていきました。この頃はいずみ宅へ居候することもあったようですが、ある種の狂的な雰囲気を漂わせ、いずみたくでさえも一歩引いて見ていたようです。一頃いずみの仕事を断りプレイヤーに専念しますが、ジャズ誌での評判とは裏腹に心身共に衰弱が目立ち始め、やがてある時期を通過して久しぶりにいずみの元に戻ってきます。そしてまた以前のように編曲を任されるようになりますが、彼の再起を誰よりも喜んだのは言うまでもなくいずみたくでした。名アレンジャーの名を欲しいままに作曲も手掛けた渋谷ですが、70年代半ばからはピアニストとしても活動するようになり、浅川マキのバンドなどでプレイ。現在も渋谷毅オーケストラ、渋さ知らズなどで精力的に活動しており、そのスタンスは若いプレイヤーたちに尊敬されています。
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