Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2004年04月04日(日) |
毎日ミスチル(オールナイトニッポン)・続「e.s.t.(エスビョルン・スヴェンソン・トリオ)」・ケティル・ビョルンスタの『海』 |
昨日の午前中は、桐生の公園で下二人の子どもとフリスビーと鬼ごっこをしまくって、今日はうでとかふとももが筋肉痛。都心は雨です。 いくつになってもフリスビーをしていたいもんだな。気持ちは「youthful days / Mr.Children」だった。
ドコモのサイトでは全国のヴァージョン違いのCMが閲覧できて、ミスチルの新曲「PADDLE」がさらに明らかになって。 アンディ・パートリッジも筒美京平も広沢虎造も時空をこえた微笑みあいをするに違いないメロディーの三重構造だ。 そしてこの曲とともにまた新しい日々が訪れるんだ。“何度でも何度でもぼくは生まれ変わってゆける” (「蘇生」)、そうさな、色即是空。
ミスチル特集だったおとといのオールナイトニッポンを聴けなかったけど。 「言わせてみてぇもんだ」は“マジカル・ミステリー・ツアー時のビートルズだ!極めてジョン・レノン的”、「天頂バス」は“景色が次々変わるミスチル史上最高の難曲”、「花言葉」は“初期のミスチル的な優しさがあるメロディーライン”、とのこと。 AMラジオでかかる「くるみ」も良かったらしい。そうだよね、ラジオでかかる音楽ってどうしてあんなに切ないんだろ。
昨日は晴れていたでしょう、新桐生の駅から市内へ向かう桜並木はトンネルのようになっていてね、去年の春は長女の入学式に一緒にバスに乗ってこの桜のトンネルを通ったんだ、歩き始めたばかりの長女を連れて府中競馬場の桜並木の下を歩いたのはつい昨日のようだったし、今年の桜もまた変わらずに何年前とも変わらずに。
しゅっ。ぱん。 しゅっ。「わー」。「ごめ」。 しゅっ。…ぱん、ぼとっ。「おっと」。「おしー」。 しゅっ。ぱん。 しゅっ。…ぱん。「うー」。「すげー」。「あはは」。 「いくぞー」。しゅっ。ぱん。
▼続「e.s.t.(エスビョルン・スヴェンソン・トリオ)」 楽曲の作り方・構成みたいもんがメセニーグループの高揚に近い、という意味です。 二部に演奏されたピアノの弦を弾く内部演奏を主軸に構成されたナンバー、なぞ、ほぼ完璧に構成されていて、そのフィニッシュに至るまでのオリンピックの床運動を見ているような圧巻さが気持ちよくて興奮させられた。 パット・メセニー自身が彼らの才能を喧伝したという事実があります。わかりやすすぎです。 また、スヴェンソンはゆっくり弾いたらつい若きジャレットの真似っこになってしまうことも自覚しているはずです。本人には深刻な話でしょう。
スヴェンソンのピアノを聴いて、鍵盤にぺったり吸い付く指に「吸盤が付いているのではないか!」、と思わされました。 いいピアノタッチです。しかも速くて若々しい。この鍵盤タッチの重さみたいなものが彼の、ひいてはこのグループの財産です。 あれです。この指でちくびをくにゅくにゅされたらと想像するだけで、会場にお越しになられていた簡素な身なりの若き女性の紅潮した拍手のにの腕のすはだの弾みとわきたつ熱気に気付いて(妄想して?かな)、ドキドキしてしまう倒錯にこそ、ぼくのこのコンサートの感動の源(みなもと)があることを告白したいものです。
二部が終了してメンバーが拍手を受けている会場で、ひとり座席を立ち退場してゆく初老の紳士の姿を暗いホールにぼくは見た。 清水俊彦さんだったと思う。
▼ 雨が降り出しそうな午前1時の乱れた雲を見上げていたら、空がゴーッと音をたてていた。 練馬にある自衛隊基地からの戦闘機が空を駆けているのか。
ケティル・ビョルンスタの『海』という作品がある。
想うと、ただ鳴るのだ。 記憶とともに、鳴るのだ。 ゆったりとした海面の動きが文字通り聴く者を包み込むのだ。
全身が抗い難く海に漂うとき、窒息する恐怖が、乳児期の抱きかかえられてとろける乳房の重みにちからが抜けてしまうことにつながってゆく。
そんなことが音楽に表現されている稀有な作品。
誰かはビョルンスタのピアノは下手だと言い、誰かは学芸会的なミリキしか感じないと言い、誰かはこんなのジャズとは到底言えないと言い、このCDを評価できないジャズ系ECM好きとはことごとくぼくは結果的に離れてしまった。まったく理不尽なものだ。 ぼくはこのCDを結果4枚購入したけど、みんな誰かにあげてしまって、手元には1枚も残っていない。
『The Sea / Ketil Bjornstad-David Darling-Terje Rypdal-Jon Christensen』(ECM1545)1996■
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