Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
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2004年01月26日(月) |
小沢健二『刹那』再論・詩の朗読+ヤンガルバレク4(1977年タレントスタジオ、オスロ) |
(・・・いっきに2日分アップしたもんで、ひきつづき、きのうのもおねがいします・・・)
今日は、エドワード・ヴァン・ヘイレン(ギタリスト)の誕生日です。と、「ジャンプ」がかかります。ふむ、たしかに代表曲やし、ここの間奏のギター・ソロも完成された芸風の域に達しておりますが、ここはひとつ、ヴァン・ヘイレンが77年に、様式美化をひた走っていたハード・ロック界に小爆弾を落としたようなデビューシングル「ユー・リアリー・ガット・ミー」を聴きたかった。
▼小沢健二『刹那』再論(<12/27) おざけんの『刹那』を聴いていると、じわじわとやってくるんですよ(ま、実際『Eclectic』という作品も、ある意味そうなんですけどね)。 9曲42分しか収録されていないぞー、刹那2なんか作るなよー、てな声もあるにはあったが。それ、小沢健二を理解してないです。 ミュージックマガジン2月号では、岡村詩野さんが「選曲だけだと6だが、曲そのもののクオリティは当然――10」、と、書いている。 そうです、当然、10なのです。今でも10なのです。これは重要なことです。 時を経ることによる音楽の劣化をこれほど受けていない事実にぼくたちはもっと衝撃を受けなければなりません。 そして、この小沢自身が選曲リマスターした9曲42分の構成の妙を聴き取らなければなりません。岡村詩野さん、選曲も10なんです。
1.流星ビバップ 2.痛快ウキウキ通り 3.さよならなんて云えないよ(美しさ) 4.夢が夢なら 5.強い気持ち・強い愛 6.それはちょっと 7.夜と日時計 8.いちょう並木のセレナーデ(ライブ) 9.流星ビバップ(インスト・トラック)
ぼくは思うんだけど、『LIFE』を『LIFE』たらしめているのは「いちょう並木のセレナーデ」なんだ。 「きっと彼女は涙をこらえてぼくのことなど思うだろ」、と、そんなことあり得ないことをわかっていて。 「よびかわしあった名前など」・・・。「今は忘れてしまったたくさんの話をした」・・・。 ・・・よびかわしあったなまえなど・・・ これは、核心だと思います。 ひととひととが出会い、名前を呼びかわし、赤ん坊が生まれて名前をあたえて呼びかけて呼びかけられて、生きて、死んでゆく、すべて。
『LIFE』では、「いちょう並木のセレナーデ」のあとに「ぼくらが旅に出る理由」が配置されています。死と再生を思わせる構造です。そして最後にオルゴールで「いちょう並木のセレナーデ」の旋律が映画のエンドロールのように奏でられます。 この『LIFE』の閉じかたは、『LIFEパート2』を禁じていた、と、感じる。もし『LIFEパート2』が始まったら、『LIFE』の閉じかたは価値を損なう。
『ペットサウンズ』以降のブライアン・ウイルソン状態でもあっただろう小沢健二。
『刹那』の「いちょう並木のセレナーデ(ライブ)」〜インスト・トラックは、『LIFE』の「いちょう並木のセレナーデ」〜オルゴールを想起させる。 小沢健二のファンにとって瞬間と永遠は同義であることを知っている。 >すべからく、素晴らしい音楽とは、瞬間と永遠が同義であることを告げている、と、思う。 だから『刹那』とは、『LIFE』の別名であるくらいわかっていてもいいのである。
小沢健二はフリッパーズ時代から、一枚のアルバムを発表するごとに、その一枚の中に、ふつうのアーティストが生涯をかけて表現するだけの大きなものをぎゅっと詰め込んでしまって、そのあとはまた、まったく違うアルバムを制作してしまう、という、そういうアーティストだと思う。
グルーブ感への傾倒。 モータウンとの契約が噂されたり、マーヴィン・ゲイのトリビュートに参加したり、そうしてスクリッティポリッティばりのスタジオワークを施した『Eclectic』を一昨年に発表している。 『Eclectic』は、歌詞が読み取れないアルバムだった。聴いていて、歌詞の意味するところが即座にはわかりかねる音楽となっていた。 いわば“詩性のオザケン”からも跳躍した場所に鳴っている音楽である。女性との濃密な関係性を暗示するエロティックなものと聴かれた。 即効性はなかったものの、昨年秋口あたりから「寝かしてあった『Eclectic』がけっこうきてるんですよねー」と言いあうわたしたち。 いま、「麝香(じゃこう)」がまじでヒットしてます、わたし。 う、ここ、う、ここ、あなたのこころ。 『Eclectic』が、もしや、ポップミュージックの掟破り、である、音楽の時限爆弾、であったとか?
シングル集が当初のコンセプトであった『刹那』、は、小沢と東芝EMIとの契約上どうしても出さなければならない1枚だったのだろう、と、推察する。しかし小沢はその意図どおりには事を運ばなかった。そして時期を狙って『刹那』を仕掛けた。『Eclectic』の小沢健二と『LIFE』のおざけんは別人だという大半のリスナーが思うそのことにつっかかるように彼らしい必要最低限の補助線を引く。 そして結果は、理由はよくわからないが、デビューシングルの「天気読み」とか、渋谷毅・川端民生との『球体の奏でる音楽』も、同時に、耳にリアルに聴こえるかのごとくの事態だ。『刹那』は仕掛けられた、のか?
(脈絡なく・・・)おざけんは小説を書いている、そんな第6感もはたらいてしまっているのです。まじで。 そして、綿矢りさにインストールする・・・(をゐをゐ)
▼ 筒見京平フリークのSさんの『刹那』に対する証言。 「強い気持ち・強い愛」というのは素晴らしいナンバーですね。一句一句にオザケンワールドが凝縮しています。そして作曲しているのが筒見京平なんですが、クレジットを見なければ誰も筒見京平だと気付かないでしょう、それだけこれは小沢健二の音楽ということです。そして本当に驚くべきは、そういう小沢健二の音楽をカンペキに吸収してこれを作曲した筒見京平という作曲家の学習能力の凄さなんだと思います。
▼ JAN ERIK VOLD + JAN GARBAREK 4 『INGENTINGS BJELLER』(Polydor 2664 388)2LP 1977年9月、オスロ、タレント・スタジオでの録音。エンジニア、ヤン・エリック・コングスハウ。 オスロの中古レコード屋のショウウインドウに飾られていた逸品。 この時期のガルバレクのサックス音は、眼光鋭く頬がこけてヒゲがはえている。 ヤン・ガルバレク、ボボ・ステンソン、パレ・ダニエルソン、ヨン・クリステンセン。 詩の朗読はノルウェー語がわからんからわからん。やたら“ミシマ”と発語するが、日本語で書かれた『豊饒の海』を理解できたんか?
なんとも、すげー、すげー、すげーLP。松浦亜弥に聴かせてあげたい、ということで、自主CD化を完了。ふーっ。
ロヴァの耳■musicircus
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