鉄平の死に思う - 2007年03月18日(日) 題名にさくっとネタバレを書いてしまってよいものかとも思うが、鉄平の自殺に思うことをいくつか。 ・これもさくっと書いてしまうが、わたしは自殺を実行しかけてやめたことがある。 高校の頃ぐらいから何度か思いつめてやろうとしたことはあったが、こわいのはいやだし痛いのもいやだし、なんだか中途半端な感じで終わっていた。(ちなみにいわゆるリストカットとかああいうのをやっていたわけではありません、念のため) 本格的に実行に移したのはうつ病が本格的に悪くなってきていた時期で、車に練炭とガムテープを積み込み、夜中、阿蘇の山中へと向かった。 目張りをして火をつけて、携帯のメモ欄に遺書のようなものを書き綴っているところで、わたしは自殺を思いとどまった。 車を急発進させ、練炭とガムテープを窓から投げ捨てながら、わたしは必死に自分のアパートへと戻った。 わたしに自殺を思いとどまらせたのは弟への愛情で、弟に迷惑をかけたり、つらい思いをさせたりしてはいけない、という気持ちがぎりぎりのところでわたしに歯止めをかけた。 鉄平が自殺へと追い込まれていく心情の描写はなかなかリアルなもので、実際にやったことのある人ならではのもののような気がした。 次第に言葉少なになり、周囲に悟られないように万全の気配りをし、自然なかたちで人を寄せ付けないようになっていく。 最後、猟銃を顎にあてがってからの間の描き方は圧巻。 これは万人共通ではないかもしれないが、わたしは、火をつける瞬間まで、そして火をつけてからも、ずっと逡巡していた。 その間の心情をことばにすることは難しい。 生きるべきか死ぬべきか、本当に死ぬべきなのか、死ぬのはこわい、しかしやはり死ぬことでしか解決できないという思いは確たるものとして自分の中にあり、そういった思いが交錯する中、わたしは真っ暗闇の森の中に停めた車内でじっとしていた。 鉄平が猟銃を顎にあてがってから、一瞬周囲の音が掻き消え、太陽の光が差し、その光にまばゆそうに視線をやり、周囲にはやがて音が戻り、そして目を閉じ、そしてまたたっぷりと間があったのちに、引き金が引かれる。 この間が、まさにわたしの経験したあの逡巡と非常によく重なっている。 そういう意味で、とても濃いリアリティを感じるものだった。 ・鉄平の死に顔について。 父親と弟が霊安室に通されるところで「ああ、思い出すかもなぁ」と思っていたが、キムタク演じる鉄平のその死にメイク、やはり思い出した。 白い乾いた唇、青黒い肌。 思い出して、よかった、と思う。 学の死に顔。 マンションの部屋、301号室、わたしがヤフオクで買ってあげた低反発マットレスに横たわり(そのマットレスには無印で買ったカーキ色のシーツ一式をかぶせていた)、虚空を見つめていた学の死に顔。 5月16日は水曜日で、その日、わたしはどこにいようか、と思う。 301号室に行くべきだろうか。 そこにはもう、新しい住人は入っているのだろうか。 豊橋に行ってあげたほうがいいのだろうか。 豊橋に行って、学のお骨に会いに行く。 行こうかな、と思う。 水曜日だから、仕事もないのだ。よかった。うまくいく。 前の日、5月15日、わたしは301号室に行かなければ行けないだろうと思う。 夜。5月15日の夜。 その日は教室があるから、教室が終わってから。 わたしが、学にあのセリフを吐いた日だ。 出てって。 話す気がないなら、出てって。 時間帯も、そのくらいだね。きっと。 ・鉄平の母親について。 取り乱し方がやはり、リアルに母親のそれだなぁ、と思った。 なりふり構わず、このまま壊れてしまうのではないか、というような、そんな取り乱し方。 学のお母さんは、元気にしているのかな。 「まーくん、ごめんね、ごめんね」 耳に焼き付いたままリフレインしていて、気がついたら、わたしも心の中で学のことを「まーくん」と呼んでいるときがある。 ・弟について。 「兄さんを殺したのは、ぼくとお父さんです」 と言っている。 「殺した」 という気持ちを背負いながら、生きていけるのですか。 死に顔は無言で生きている者を痛めつけ続ける。 痛めつけ、責め立て、悲痛の底に叩き落とす。 その死に顔が安らかで、穏やかであれば、なおのこと。 自責の念、「じせきのねん」とひらがな六文字で片付けてしまえるほどあっさりさせてはいけないように思う。 本当は、わたしも死ななければならない。 ただ死ぬのではなく、同じ苦しみか、あるいはそれ以上の苦しみを味わって死んでいかなければならない。 こうして生きていくことが許されているのか。 しかし実際は、死ぬことも許されない。 ということで、苦しみを背負いながら生きていかなければいけない、というのが現実的な答えとなる。 殺した、という事実は消えることはない。 いくらわたしが清く正しく生きたところで、わたしが学を殺した、という事実は消えることがない。 もっと言えば、それで学が生き返って、幸せになってくれるわけではない。 だからきっと苦しい。 苦しくても、生きていっていいのだと思う。 苦しむことが日常で、それでいいんだと思う。 実際、言うほど苦しんでない気もするし。 毎日、楽しんでいる。 仕事も楽しいし、ネットも楽しいし、彼氏との電話も楽しい。 でも学に対する申し訳なさ、取り返しのつかないことをしたという重荷、は外れないけれども。 よくわからない。 学はいつ、報われるんだろう。 学の苦しみは、いつ、昇華されるのだろう。 天に昇っていくのだろう。 学はいつ報われるんだろう。 わたしにできることは? 学をひっくるめたわたしという人格を丸ごと幸せにしてあげること? そうかもしれないね。 皇帝ペンギンを、やっと見られるかもしれない。 -
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