ワニと小鳥 - 2007年03月14日(水) 「食べた」というフレーズが印象的、聴けば聴くほどに沁み入ってきてしまう。 感傷に浸る、というのではなく、身を削るような、こころを切り取る作業を切々と続けるような、そういう痛い感覚がある。 しかしそれは必要なことなのだ。 わたしはもっと、痛くてつらい思いをしなければならない。 ワニは小鳥を食べてしまうのだ。 醜い、醜い、と自分を呪う声が聞こえる。 今は生かすことができるのか。 できるのだろうか。 なんかものすごい急ピッチでものごとが進展して彼氏ができたのだけど、この人もどちらかというと、弱い人なのだ。たぶん。 学と少し似ていて、ぜんぜん違うところもたくさんあるけれど、でもやはり、似ているように思うのだ。 前に一度、そのようなことを伝えた。 学とあなたはよく似ている。 だから、あなたには、死なないでほしい。 と、わたしは伝えた。 学は死んでしまったが、あなたには、死なないでほしい、ものすごく一方的で私的な願い事だとわかってはいるが、やはり、わたしはあなたに死なないでほしいと思っている、というようなことを伝えた。 学を生かしきれなかったから、わたしはその人のことが好きなのだろうか。 学のことを背負っているからこそ、わたしはその人と近づいたのか。 わたしのなかにある「決意」というものは、「この人と私はいろいろな偶然が重なって通常よりも深いところでつながっている感触がある。この人は私を信頼しようとしてくれている。だから、私はこの人を裏切ってはいけない。この人のこと『は』裏切りたくない。」というようなもので。 学の存在ありきの関係? だとしたらとてつもなく失礼なことをしている。 わたしもその人のことを信頼したいと思っているし、信頼に値する人だと思っている。 大好き。 だからずっと仲良くしていたいし、今の関係を壊したくはない。 それがあれば、いいのだろう、と思う。 いいのだろう、とは思うのだが、だからと言って、ハイ次、とさくっと気持ちをシフトできるのならばその人はロボットか何かとたいして変わらないのだろうと思う。 学の声は、いつになったら聞こえるんだろう。 5月16日が、たぶん、学の命日。 誰が何と言おうと、何度「ちがう」と言われても、それでも、 わたしは学を殺した、殺した殺した殺した、 そういう声が脳裏から消えることはない。 殺しておいて、自分はさっさと次の男に乗り換えかよ。 おめでたいね。 死ねばいいのに。 同時にそういう声も聞こえるけれど、べつに苦しくとかならない。 わたしが苦しむ筋合のことではないのだから。 わたしには苦しむ権利もない。 開き直るのとも少し違う、けれども、確かにわたしはそうしている。 だから、苦しむ権利はない。 わたしは幸せそうに笑っていなければならないのだ。 -
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