劣等感と境界線 - 2004年02月10日(火) 大学生の頃に書いた日記。 今ほとんど同じことを考えているので貼り付ける。 なんだか読む人のことをほんと考えてなくて、読んでくださっている人には申し訳ないのですが、この日記の一番の意義は自己満足なので、ごめんなさい。これでいいんです。今のところは。 ふとしたことで、高校時代の自分が頭をもたげてきた。 劣等感と自己嫌悪に支配され、身動きが取れなくなる。 私は何がしたいのか、私は何をするべきなのか、私は何を言うべきなのか… 自己意識が破裂寸前の風船のようにぱんぱんに肥大し、外部のものが入り込む余地がまるでなくなってしまう。 私のプライドを冒すものに、私はどう立ち向かえばいいのだろうか。 何を思えばプライドを守れるのか。 何を言えば満足できるのか。 ひたすら自分のことばかりを考える。 劣等感に浸っているときはそういう状態だ。そして最近発見したことだが、劣等感に浸るときというのは、なんていい心地なんだろうか。 高校生の頃は、劣等感の渦のなかでぐるぐる回っているときに「こんな自分が好きだ」なんて思わなかったが、今はそうでもない。 劣等感を積極的に肯定しているわけではない。苦しいことに変わりはない。 それに陥っているときというのは「こんな自分は嫌い、バカバカバカ」と自分を罵る部分の私は当然自分が嫌いなのだが、罵られているほうの私はそのとき自分をとても愛していて、その部分の感情に気がついた、ということだ。 「そんなバカな自分が可愛い」というようなのではなく、理屈も何もない。 ただ唯一の存在である私がここに存在している、という実感が大事なのだ。 だから私は自分と他人との境界線をくっきり引いておかないと、恐怖に襲われる。 自分がどんな他のものとも違うたった一個の自分であるからこそ安心できるわけで、他人の、私とは異質な感情や思考体系や信条や価値観が、私が苦心して引いた境界線をあやふやにして、何時の間にかスライムが流れ込むように私の中に入り込み、同化してしまっているのが絶えられない。なぜなら劣等感が生まれるのはそういうときだからだ。 入ってくるだけなら大丈夫だ。ただしそれが、私そのものとは違う外部からのものだ、と何らかの形でラベリングされていれば。 境界線を見失わないことが、今の私の当面の課題だ。 人との密接な関わり合いの中で、私はよく境界線を見失う。 はじめ、私はその人に何がしかの好感を抱く。それは「似た者同士」でも「自分にないものを持っている人」でも、どちらでも根本は同じだ。そして思ってしまうのだ。「この人と同じになれたら。」 すると境界線は消えてなくなる。 その人を構成する要素が私の中に怒涛のように流れ込み、それらが大きな位置を占めるようになり、私は自分がどこかへ行ってしまうことへの恐怖に押しつぶされ、人間関係を破綻させてしまう。22年足らずの今までに、何度そういうことがあっただろうか。 しかし、ひとりぼっちは絶対に嫌なのだ。まだ完全な孤独を経験したことがないので、それがどんなものかは想像もつかないが、敢えて考えてみると死の恐怖に近いものではないだろうかと思う。 いや、ほんとによくわからないんですけどね。 言うじゃないですか。「人間は社会的動物だ」と。 同僚に 「最近周囲の人に、ふとしたことで劣等感を感じることが多い」 という内容のことをもっと日常会話的に話すと、 「それは劣等感なんてものではなく『羨望』にすぎないんじゃないのか。人と自分が違うからといって自分に価値がないだなんて思わなくてもいい」 という意味の言葉をかけてもらった。 こうして文章にするとまったくその通りなんだけども。 もうとにかく考えないで、立ち止まらないで、走ることに専念する。 境界線があやふやになってもいい。 誰かから見捨てられることへの異様な恐怖心、見捨てられないために最初から距離を保とうとする自己保身、そういうのをかなぐり捨てられるぐらいに走るんだ。 一生懸命。 疑って傷つけるより、信じて傷つけられるほうがいいって思った。(金八先生ぽいね) なんか私じゃないみたい。 -
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