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2009年10月09日(金)
愛とはなにか








ここのところ、精神的に落ちているので、
なるべくひとりでいるときは、静かな場所を求めて
ゆるやかな音楽を身体に聞かせて。
だれかに愚痴を言ったりするのはしないので、
ひとりで悩むだけ悩んで、あるラインまで自分を持ってきてしまうわけですが

秋という季節のせい。いや、いろいろなことに迷いが生じているから。
自分の弱さや、脆さを、改めて思い知らされるというか。


人はひとりじゃ生きていけない
孤独を好むものの、孤独は人にとって、最大のストレスとなる。
それを和らげるのも、強くなるのも、
自分次第であり、自分が選び進んだ上で作られた環境でもあるから。
しっかりと、進んできたつもりでも、まだまだ。

もっと自分を律して、努力しなくちゃいけません。

写真は、きょうの帰り道。友人と約束があって、となりの区へ寄り道したんですよ。軽く食事しました。



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私は愛とういものを信じない。

もちろん、愛というものは存在するはずだし、
すごく強くて、とてもすばらしいものであることはたしか。
愛があるから恋愛も、結婚も、子育てもできるわけですから。

でも、私に至っては、愛を信じることができなくなっている。
いろいろな要因があるわけですが。
こればかりは、どうしても、簡単に解決するものではないようだ
誰にも理解されないでしょうし。
理解されようとも思わない


愛とはなにか・・・
そんな質問をしたことがあったが、
「そんなことを聴くほうがどうかしてる、そんな質問は理解できない・・・」そんなことを言った人もいました。

そういう考え方は、強い人の考え方?いや、むしろ本当は「弱い人」の考え方のように思えたりする。そのときは、「なんだか淋しい人だな」と思ったものですが、何も言わなかった。

でも、愛って、なんでしょう?
そのときそのときで、定義は変わるとおもうけれど、誰しも「愛とは」って定義づけでするものがあるべきだと、僕はおもう


強い人だからこそ、愛を感じられる
愛とはなにかを、わかっている。
言葉にできるはずです。
両親や家族、周りの人から、本当のしなやかな愛情が注がれてそだった子供は、大人になっても強い子に育つという、とある研究結果がある(いつしか、新聞に載っていた)。どんな困難なことがあっても、「この人がいてくれる」「この人のために」ということが強くこころに刻まれているからかもしれない。決して甘やかすというのではなくて、本当の愛情というものが実在したかしないかの差。


私は、愛はうつろいやすい。人が心変わりしたり、裏切ったり、妬んだりするように、愛も、完全で確固たるものではないと、いまの私は思ったりします。どう変化するかわからない、とても怖いもののようにおもえてならない

昔は、もっと純粋でね、愛があれば、どんな困難も乗り越えられる、この人のためなら、私は犠牲になっても・・・そう思っていたものです。

でもね、愛があるから、伴侶を捨てて、他の人に走るとかっていうこともあるし、愛が重荷になって、逃げてしまうとか、自分を傷つけるとか、愛が一瞬にして冷めるとか。愛が色褪せてしまうとか。


人のこころが移ろいやすくて、変わりやすいのだから
愛なんて、これほど不確かなものはない。でも、愛によって、人は時として麻酔をかけられたようになるし、愛に狂う人もいらっしゃる。
僕は、そんな不確かな愛に翻弄されて、傷つくだけ傷つくのはもうしんどい
人の甘い言葉、約束も、常に疑心暗鬼に陥る状態。


どうしてこう屈折したのか?
振り返ってみると、気が重くなるけれど。でも、愛がわからなくなって、信じられなくなった自分である以上、これから先、どう一人で生きていくかを、もっと真剣に考えていかなくちゃいけないことを、最近すごく思ってしまって、不安感とかも相まって、こころが重たくなっているんでしょうね。


過去にあれこれ、自分のこと、批判されたこともあったし、「ダメだ」といわれたり。トラウマになっていることは、消えることはないですし。100%頑張っても、相手は200パーセントを求めていたとすれば、もうこれ以上もありません。疲れてしまいます。だから、これが限界だってことをわかると、無理なものは無理ということになります。でも、精一杯やったことだけは事実で。それが伝わらない、評価されないこともありますし。




結婚されている人は、本当にすごいことだとこころから思うのです。
尊敬に値する
だからこそ、結婚式に参加させていただくと、いつも精一杯祝福したいって思うし、思わずもらい泣きするくらいになる。

そこには、嘘偽りない、「愛」が存在するから。
とても尊い、強い絆の上に。


私は、人間関係の行き着くところ、行き着く愛は「慈愛」だと思っている。
慈しむ愛。無償の愛。
特別な人にのみ生まれる愛。強く、強く、強い愛。
でも、それを感じて生きている人が、果たしてどれだけいるかな?
そういないと思う。
ただ、存在を失ったとき、その人の存在の大きさに気づくとき、「慈愛」というものを、意識するのかもしれない。


恋をして、それが愛に変わる。
そのプロセスは、あまりに当たり前のようで、あまりに難しいことで、あまりに不確かなもの。

ただ、いまの僕が思うのは、愛する人に裏切られたりしても、それを受け入れる、許せるこころ、大きな覚悟ができるか。それが出来る人が、本当の愛を知っている人なのかもしれない。愛は完全じゃないってことを悟っていることって、なかなかできることじゃないけれど。



愛というものは、何なのか。
その答えは、果たして出るのでしょうか?
でないでしょうね。これからも。なかなか。
まぁ、こらからも、この調子ですね・・・

いや、「そんなことを聴くほうがどうかしてる」ってことなのかな?(笑)



コバルト

広島在住
文筆とカメラとここちよい暮らしが好き
ホームページ⇒http://www.geocities.jp/cobaltblue21jp/

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