ここのところ、精神的に落ちているので、 なるべくひとりでいるときは、静かな場所を求めて ゆるやかな音楽を身体に聞かせて。 だれかに愚痴を言ったりするのはしないので、 ひとりで悩むだけ悩んで、あるラインまで自分を持ってきてしまうわけですが
秋という季節のせい。いや、いろいろなことに迷いが生じているから。 自分の弱さや、脆さを、改めて思い知らされるというか。
人はひとりじゃ生きていけない 孤独を好むものの、孤独は人にとって、最大のストレスとなる。 それを和らげるのも、強くなるのも、 自分次第であり、自分が選び進んだ上で作られた環境でもあるから。 しっかりと、進んできたつもりでも、まだまだ。
もっと自分を律して、努力しなくちゃいけません。
写真は、きょうの帰り道。友人と約束があって、となりの区へ寄り道したんですよ。軽く食事しました。
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私は愛とういものを信じない。
もちろん、愛というものは存在するはずだし、 すごく強くて、とてもすばらしいものであることはたしか。 愛があるから恋愛も、結婚も、子育てもできるわけですから。
でも、私に至っては、愛を信じることができなくなっている。 いろいろな要因があるわけですが。 こればかりは、どうしても、簡単に解決するものではないようだ 誰にも理解されないでしょうし。 理解されようとも思わない
愛とはなにか・・・ そんな質問をしたことがあったが、 「そんなことを聴くほうがどうかしてる、そんな質問は理解できない・・・」そんなことを言った人もいました。
そういう考え方は、強い人の考え方?いや、むしろ本当は「弱い人」の考え方のように思えたりする。そのときは、「なんだか淋しい人だな」と思ったものですが、何も言わなかった。
でも、愛って、なんでしょう? そのときそのときで、定義は変わるとおもうけれど、誰しも「愛とは」って定義づけでするものがあるべきだと、僕はおもう
強い人だからこそ、愛を感じられる 愛とはなにかを、わかっている。 言葉にできるはずです。 両親や家族、周りの人から、本当のしなやかな愛情が注がれてそだった子供は、大人になっても強い子に育つという、とある研究結果がある(いつしか、新聞に載っていた)。どんな困難なことがあっても、「この人がいてくれる」「この人のために」ということが強くこころに刻まれているからかもしれない。決して甘やかすというのではなくて、本当の愛情というものが実在したかしないかの差。
私は、愛はうつろいやすい。人が心変わりしたり、裏切ったり、妬んだりするように、愛も、完全で確固たるものではないと、いまの私は思ったりします。どう変化するかわからない、とても怖いもののようにおもえてならない
昔は、もっと純粋でね、愛があれば、どんな困難も乗り越えられる、この人のためなら、私は犠牲になっても・・・そう思っていたものです。
でもね、愛があるから、伴侶を捨てて、他の人に走るとかっていうこともあるし、愛が重荷になって、逃げてしまうとか、自分を傷つけるとか、愛が一瞬にして冷めるとか。愛が色褪せてしまうとか。
人のこころが移ろいやすくて、変わりやすいのだから 愛なんて、これほど不確かなものはない。でも、愛によって、人は時として麻酔をかけられたようになるし、愛に狂う人もいらっしゃる。 僕は、そんな不確かな愛に翻弄されて、傷つくだけ傷つくのはもうしんどい 人の甘い言葉、約束も、常に疑心暗鬼に陥る状態。
どうしてこう屈折したのか? 振り返ってみると、気が重くなるけれど。でも、愛がわからなくなって、信じられなくなった自分である以上、これから先、どう一人で生きていくかを、もっと真剣に考えていかなくちゃいけないことを、最近すごく思ってしまって、不安感とかも相まって、こころが重たくなっているんでしょうね。
過去にあれこれ、自分のこと、批判されたこともあったし、「ダメだ」といわれたり。トラウマになっていることは、消えることはないですし。100%頑張っても、相手は200パーセントを求めていたとすれば、もうこれ以上もありません。疲れてしまいます。だから、これが限界だってことをわかると、無理なものは無理ということになります。でも、精一杯やったことだけは事実で。それが伝わらない、評価されないこともありますし。
結婚されている人は、本当にすごいことだとこころから思うのです。 尊敬に値する だからこそ、結婚式に参加させていただくと、いつも精一杯祝福したいって思うし、思わずもらい泣きするくらいになる。
そこには、嘘偽りない、「愛」が存在するから。 とても尊い、強い絆の上に。
私は、人間関係の行き着くところ、行き着く愛は「慈愛」だと思っている。 慈しむ愛。無償の愛。 特別な人にのみ生まれる愛。強く、強く、強い愛。 でも、それを感じて生きている人が、果たしてどれだけいるかな? そういないと思う。 ただ、存在を失ったとき、その人の存在の大きさに気づくとき、「慈愛」というものを、意識するのかもしれない。
恋をして、それが愛に変わる。 そのプロセスは、あまりに当たり前のようで、あまりに難しいことで、あまりに不確かなもの。
ただ、いまの僕が思うのは、愛する人に裏切られたりしても、それを受け入れる、許せるこころ、大きな覚悟ができるか。それが出来る人が、本当の愛を知っている人なのかもしれない。愛は完全じゃないってことを悟っていることって、なかなかできることじゃないけれど。
愛というものは、何なのか。 その答えは、果たして出るのでしょうか? でないでしょうね。これからも。なかなか。 まぁ、こらからも、この調子ですね・・・
いや、「そんなことを聴くほうがどうかしてる」ってことなのかな?(笑)
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