価値観のズレというものは、どの人間関係にもつきものです。よく、離婚の原因とされることでもあるし。人は、本当にさまざまな価値観があります。それにともない、人それぞれ、ルールというものもまちまち。法律とか道徳とかの枠内で、ルールはあるにせよ、ときに人はその枠内でも、正しい・間違い・という論議をし、力ずくでルールを曲げようとする。
僕の周りでも、この人とは根本的に合わないひとというのは、山のようにいる。 たとえば、両親。まったく意見が合わない。と、いうより、会話がかみ合わないことがおおい。もちろん、どちらが正しいという問題ではなく。そもそも価値感が違うということ。
なにかに感動したり、友達を心配したり、旅や美術で、いろんなことを感じたり。本を読んで感銘受けたり・・・僕はそういうのを大切にする人であるのだが、両親はまったくそういう人を理解できないようだ。まぁ、僕が昔から、そんな話をしても、「そんな話はわからんから」「馬鹿やなつだ」と、まったく聞き耳持たなかった。難しいことが嫌いなわけですよね。
学生のころ、僕はある学生サークルでボランティアをしていて、毎週子どもたちと接してきました。そのとき、私の両親は当初、「この子は頭がおかしいのでは?」という感じだったわけです。ボランティアなんかする学生は、よほど暇な学生か、ちと頭の変な学生・・・まったく理解できんと言っていた。だから、卒業後もよく、「ボランティアなんかやって、なにが得することがあったん?・そんな無駄なことはもうするな」と、よく言っていた。
もともと、小学生のころくらいから、両親に、なにかをわかってもらおうという想いは、まったく失せていた。がんばって伝えても、理解されないものは理解されない。無理なものは無理ということ。自分が、しっかり信念を持っていればと。 (両親は、ルールには人一倍厳しい人で、そのしつけだけは、いま感謝してるところはある。ただ、僕はいままで褒められたという記憶は皆無。なにをしても、あら捜しされ、指摘されるばかり。両親は褒めて育てる教育は嫌いだったようだ。いま思えば寂しいはなしだね。ま、いまさらいいけれど)
会社でもそうでね、以前の職場の上司でも、出来てあたりまえ、ちょっとのことでも、完全ではなければ、叱り飛ばす・・・そういうのが趣味のような方がいました。どう、みんなが言っても、その上司は変わることはなかった。大きい組織だったから、それが仕事に影響を与えることは小さかったけれど、みんなあきらめていて、どう聞き流すか、自分に火の粉がかからないようにするかだけを考えていた。
ただ、いいたいのは、じゃあ自分が社会のスタンダードか?というと、決してそうではないということ。いろんな価値観があってこそ、いろんなスタンダードがある。人のこういうところが理解できないのならば、理解できないでいいとおもうけれど、じゃあ、自分が100%正しいのか?と、確かな確信を持てなければ、過信してはいけない。ほら、他人の価値観のよいところを取り入れるだけの余裕は必要だから。
人間って、無理なものは無理。それを他人が変えさせようというのは、生半可なことでないと思います。
確かに自分の生き方・考え方をけなされたり馬鹿にされると、落ち込むし、人間不信に陥る。でも、その人だけが世の中ではない。自分の生き方に自信さえ持っていきていけば、きっと、その生き方に共感する人が集まってくるような気もします。
価値観の違う人に、振り回されるのも、しんどいからねー
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