Land of Riches
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2004年11月05日(金) |
ネタがないので日記ではなく完全フィクション。 |
きゅっきゅ、と油性マーカーが摩擦音をたてて滑っていく。 駅に掲示されたクラブのポスターへサインを書き入れるのは、作業完了の証なのだ。 「…本当に来てくれるとは思わなかった」 こんな小さな駅に―彼女は大好きなプロサッカー選手であり、 大学のゼミで師事している教授の一人息子であり、そんな幸運の積み重ねから ある秘密を共有する間柄となった男の背中へ、ぼそりと呟きかけた。 「約束破るのは嫌いなんだ」 ポスターの中央で最も大きな面積を占める自分の写真と、 そこへ書き添えられたサインを眺めながら、彼はきっぱりと言い切った。
くるり、とその頑強とは到底呼べない華奢な体を半回転させ、こちらを向く。 「だから、10ゴール10アシストいけそうにない自分が、すっげえむかつく」 それは開幕前に彼が掲げた目標数値。女は胸を締め付けられる心地に襲われる。
J1に所属しているとはいえ、毎年の目標が一部残留という弱小クラブ。 同じ県の、県庁所在地をホームタウンとするチームに実力でも人気でも劣り、 生き残るため…入場料収入を少しでも増やそうと、クラブはJ1のどこよりも 営業宣伝活動へ力を入れていた。毎月行われる、選手自身によるビラ配りも、その一つ。
チームの攻撃を一身に担う―そして知名度の点でもどの選手よりクラブに貢献している レフティドリブラーでさえ、ビラ配布の任務から逃れることはできない。 ホームタウンである市には全部で23の駅があり、その全てで配布活動を行うため、 保有人数が30人を切っているチームゆえ、選手は一人で仕事をせねばならない。 この営業活動が嫌で、オファーを拒否した選手もいると専らの評判だが、 彼は、このビラ配りは、その人気ゆえに誰よりも数が多い他の営業活動、 また練習後のファンサービスも、全く手を抜いたことがない。
一族の異端児と呼ばれていようと、やはり、その血は自己犠牲で献身的である “宿命”から外れてはいないのだ。彼女はここ最近ですっかり彼を見直した。
今はサッカー王国静岡に住む彼女だが、生まれ育った街のクラブへの愛は変わらない。 いや、サッカーがこの街よりもはるかに日常的な存在である静岡の空気に触れて、 ますます愛は深まったかもしれない。そう考えると、王国の強豪校で10番を背負い、 全国大会でも華々しい活躍をした彼にとってこの街とは…愛すべき故郷に引け目を感じる。
ホームタウンの中でも、最も市街の中心から離れた、その市へ属することさえ 奇跡的と思える地区の小さな駅。彼女は彼へ、秘密を共有する者への“試練”として、 最も乗降者数が多い駅や、乗換客が多い駅でしか配布活動を行っていなかった彼に、 自分の生まれ育った場所でビラ配りをしてくれないかと頼んだ―割と冗談っぽく。
冗談が通じないのか。
「じゃ、俺、練習場行くから」 「え、練習は午後からじゃないの?」 「…自主練したいんだ」
そう、この男は彼女が想像していたよりも、ずっと“それらしく”堅物だったのだ。
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