Land of Riches
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※注意:口調がいつもと違います。
まさかサッカー関連のページでトモの引退を知るとはね。 (私の心が)野球を離れて8年―私のサッカーファン歴と同じ―になるけど、 あたしと同じように10年近く前の記憶を大事に抱えてる人たちの声をネットで見てたら、 眠れなくなっちゃった。あの頃のあたしはトモが好きで、トモが勝った次の日は 恥かしい思いをしながら―ツバメ党ならサンスポを買うべきとは分かってたけど、 「大人のページ」に手が出せなくて中日スポーツばかり買ってた。そのせいで Jリーグ開幕の記事(ジーコがハットしたのが一面だった)も持ってたりする。
授業中にヤクルトファンのペンパルへ手紙ばかり書いてたあの頃、あたしより トモを熱狂的に応援してた子はたくさんいた。だから、トモが1年目の終わりに 泉ちゃんと結婚した時、二人はめちゃめちゃないやがらせを受けた。それでも、 それを応援の証として受け止めたトモ。そんなことをaiで言っちゃうトモが好きだった。
バルセロナ五輪銅メダルチームのエースはコヒ(=小桧山)とトモだった。 その頃は確かコヒの方が評価が上だったような覚えがある。二人は仲良しだったけど。 で、ドラフト直前の「週ベ」(=週刊ベースボール)で、MMCのつなぎを着て のほほんと笑ってた人が、私が人生でたった一度だけ生で見たドラフトで、 うち、つまりスワローズに来ちゃったのが運の尽きだった。まさか、あんな化け物とは 思わなかったもの―今のあたしはサッカーについて、やったこともないくせに プレーについてああだこうだと理屈を並べようとするけど、あの頃の私は もちろん野球そのものなんて分かるはずもなくて、実際、バッターから逃げるように 曲がるのがスライダーだと知ってても、中継見ててどれがスライダーだか分からなかったんだ。
でも、みんながあんまりにも褒めて、そして、何よりトモが三振の山を作ってたから、 本当にトモのスライダーは「稲尾様」(は昔も今もあたしの知らないもの)みたいに すっごいのだって思ってた。漠然と。防御率の計算方法を教えてくれたのもトモだった。 失点数をイニング数で割るんだよ! スポーツ新聞には打率や防御率のランキングが 載るけど、それをチェックするくせをつけてくれたのもトモだった。防御率0.91って、 人間が出す数字じゃない―だから、トモは壊れてしまったんだって言われてるけど。
トモが一度リリーフとして帰ってきたのは覚えてる。その時、久しぶりに週ベを 買ったから。でも、その時のトモはあたしの好きだったトモじゃなかったんだ、微妙に。 それは、今ネットで野球フリークの人たちも認めてる。伝説なのは、1年目。
だから、私は今でも「果てしない夢を」を聞くと泣ける。その年の日テレ中継の テーマソング、出たのは16奪三振の後にサヨナラホームラン打たれたあの日だから。 だから篠塚は嫌いだった。悔しさのあまり、ベンチにグラブを叩き付けていたトモを覚えてる。
トモが投げると誰も打ってくれなくて、サヨナラ男のハウエルだけが助けてくれたのも。 7月4日の独立記念日―神宮ナイター祭りを締めくくったあれが、まさかトモから 光が失われた日になるなんて。その頃、前年のシリーズで働きすぎて壊れた 「ばぁし」(=岡林)もリハビリ組で…あれからの長い長い長い長い時間を知ってるから、 今、どうしてもトモと「はねだけんじ」の印象が重なるなんて言いたくない。でもそうなんだ。
93年のシリーズは憲次郎の復活祭だったけど、今でこそトモより叩かれる憲次郎、 でもあの頃はトモよりずっと母親思いのいい子扱いだった。あたしの中では、 シリーズ4戦の涙のインタビューで拭っていたタオルに20って刺繍されてたのが 全てで、それに気づいちゃった時は、本当、どうしようかと思ったもん。
…なんか今でもトモにはいっぱいファンがいるんだなって、ひしひし感じてるとこです。 韓国戦のお陰で、涙なしでは見られなさそうな高速スライダーを見ずに済んだのは 幸せなのかな、どうなのかな。ちなみに今日はトモの誕生日なんだって。 あたし、憲次郎の誕生日が1月なのは覚えてるけど、トモの誕生日は祝った記憶がない。 そっか、10月は7月より後だもんね。今日はサンスポ買ってから仕事行こうかな。
これからは、たくさん心配かけた泉ちゃんを大切にしてあげてほしいのと、Numberで (肩に響くのが怖くて)抱いてやれないと嘆いてたお嬢さんをたくさん抱いてあげてほしいな、と。
あの頃、あんなに輝いてたトモにリアルタイムで夢中になれた自分は、幸せだったよ。
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