Land of Riches


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 2000年12月17日(日)   START of "L.R." 

自分を「物書きの端くれ」だと思っている。
書くことを禁じられたら、きっと生きていけない(…という者であってほしいと信じて?―願って?―いる)

しかし、それをなりわいにすれば、と勧められても、すぐにはうなずけない。
そうしたいという気持ちは小さな頃から持っていた。昔の文集に書いてある。小説家になりたい、と。
だが、強制されて書くのは嫌い―書きたいと感じる対象がなければ書けない。

人生3回目の“心の発作”に襲われ、病んだ精神を抱えての生活に限界を覚えている今、
実情を誰かに理解してもらいたいと切望しながら、実像の描写を拒否する自分がいる。
常に他者=読者の存在を意識し、なんらかの意図を持ち対象の見せたい部分のみを書こうとする。
この“拒絶反応”は自尊心といえるのか? 書くという行為はおのれのための自己表現ではないのか?

わずかこれだけの文章を書くのに長い長い葛藤を必要とする自分にとって、
書くことは喋ることと違って、非常に不自然なものであるらしい。それでもあえて書き続けるか。
…これは一つの実験なのか? プライドを犠牲にしてまでやることか?

自身を描写対象にできない―伝えたいという意欲を覚えないのは、自身を矮小評価しているからだろうか。
これまで私小説をたいしたものとは思わなかったが、自らの内面を告白できるとは偉大かもしれない。
何かを創作する際、自己の体験を元に描くことがある―おそらくそれしかできない―が、
その際は想像力という名の誇張力で、なんらかの美化を加えてしまう。理想的な人のあり方…私が望む人生。

この文章を公開したら、と想像すると、時間が経ったら我慢できず削除する自分が思い浮かぶ。
私にとって私自身はそんなに恥ずべきものなのか。その自分愛しさのあまり苦しんでいるというのに。
日記とは、毎日の出来事や感想の記録。自身を描けない私が拒むのは、当然という結論になるのだろうか。

いっそ、他人の目を思う存分意識した「日記」をつけたらどうだろうか。
それで満たされるのか、空しくなるのか…やってみたら面白いかもしれない。

頭の中で文の組み立てを考えている時点では、また話し言葉に近いのかもしれない。
すらすら出てくる。だが、いざ書き出すと言葉が出てこない。
単に語彙数が不足しているのかと思っていたが、違う理由がありそうな気がする。

言語は他者への伝達手段であって、自分一人なら言葉など必要ではない。
組み立てている時点での媒体は、自分の中で完結している“思い”であり、
それが外へ吐き出され他人へ飛んでいくものへ変化したらスムーズにいかなくなるのは自然だろう。

2000.12.18 wrote.


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