anxious for Heaven

鳥かごなんて、最初からなかった。

Past : List : Will
2006年10月25日(水) まだ、遠かった。(前編)
近況報告としてしか機能していないこの日記ですが
またろくでもない近況報告になることをお許しください。
自分と、自分の大事な人(たち)に向けたものになります。

しかも超ロングロング日記ですwwwwwwwwww
最近アフォで通っている私としては、文体も超シリアスですwwwwwwwww



転職した冬寿は勤務がありえないくらいにめちゃくちゃで
毎日8時半には会社に着き、帰りは23時50分の電車に乗るという生活でした。
毎晩、0時半過ぎに最寄ではない駅まで迎えに行くという始末。
一度、自宅のある市内を走る路線の終電に間に合わず
深夜1時の東京駅で足止めを食らうという事態もありました。
(そのときは東京駅まで首都高を飛ばして迎えに行きました)

当たり前のように、1日は24時間ですが
7時半には家を出、翌1時にしか帰宅しない彼とは、すれ違いばかりでした。
すれ違いという表現は正しくないのかもしれません。
ただ、家にいる時間は1日6時間で、毎日4時間半から5時間睡眠をとると
余る時間は1時間から1時間半しかありません。
そしてその間にも食事をしたり、入浴をしたり…という行為は行うので
実質、1日に30分も会話が出来れば上出来、そんな生活が続いていました。

救いだったのは、お互いの気持ちが離れなかったことだけだと思います。
それが一番重要なことだとは思いますが。
(そこには好意だとか愛情だとかと同等か、もしくはそれ以上の
 依存なり必要性なりがあったことも認めます)

そんな生活が続き、睡眠導入剤を飲まなければ眠れない私は
「深夜1時前の迎え」「その後の食事の支度」
「翌朝の食事とお弁当の支度」「7時半には駅まで送る」
これをこなす為、一切の睡眠導入剤を絶った結果として
1日1時間半睡眠が約1ヵ月半続くという荒れようでした。


きっと他にも積もるものがあったのだと思います。
長年の家族との確執だとか。
(注として記しますが、とても仲は良いのです。
 ただ、両親の金銭問題から離婚の調停に至るまで、全てに於いて
 メッセンジャー的な役割を果たすことへの疑問や不満が積もっていました)

疲れきっていて、「そろそろ死んでもいいかもなあ」などと思ったりもしました。
実行できなかったのは、20日から遊びにくる友人との約束があったから
ただそれだけでした。

初上京し、気の張る「仕事」を終えた彼女と、22日、お台場に行きました。
彼女は6つ、歳の離れた「同級生」です。
(2校目の大学=通信に通いつつ、仕事をしつつ通っていた専門学校の同期)
二人で慣れない街をきゃいきゃいと言いながら歩き
完全におのぼりさんと化してフジテレビの展望室に行ったり。
帰りは、どうしても臨海副都心の夜景を見せてあげたくて
水上バスの日没後の便に乗ったりもしました。
彼女とはいろいろな話をしたのですが
「○○ちゃんは妹みたいなものだから」という私の言葉に
「ホント?Kyoちゃんは○○の『おねぇ』って思っていいの?」
という彼女の言葉がとても心に刺さりました。

夜景を見たかったのは、本当は私だったのかもしれません。
夜景が綺麗だな、と思いながら、実はそのとき、私の目と気持ちは、もう
「死ぬ」ということばかりに向けられていました。

彼女を浜松町まで送った後、少しだけ電車内で涙ぐんだりしました。

冬寿は、土日の両方とも休日出勤で
もちろん帰りは、終電でした。
月曜日は代休だということで、ゆっくり出来る予定でした。

その日は、睡眠薬を少し多めに飲んで、眠りました。
30錠ほどでした。
記憶では。


ただ、こっそり隠し持っていた、かなり効力の強いものを飲んだこともあり
断薬期間を挟んでいたことも重なって
私には月曜日の記憶がありません。

ここからは冬寿から聞いた話が主になりますが
どうやらほぼ一日、寝ていたようです。
夜になって、彼は上司(実は私の実父です)と仕事の話をしに行く、と
家を出ました。

しかし彼は、途中で家に引き返してきました。

「今から薬を飲む」
私が電話で、そう、言ったそうです。
「Kyoと電話が繋がらない、なにかあったのか?」
父が電話で、そう、伝えたそうです。

帰ってきた冬寿が見たのは、何故かダイニングで倒れている私でした。
そう連絡を受け、程なく、父親も電車を乗り継いで駆けつけました。
冬寿と父親がふたりがかりで、動かない私を2階の洋間に運び
客用のベッドに寝かしつけました。
私は何かわけのわからないことを言いながら、しきりに暴れていたようです。
父親が必死に押さえつけていた、と聞きました。
きっと、そのあと、寝たのだと思います。
父親は家に帰り、冬寿も少し安心したそうで、和室の自室で眠りました。

この日、飲んだ薬は、手元にある空ケースが確かなら
50数錠だったと思います。


明けて火曜日。
冬寿は
「薬が効いて眠っているんだろう、目が覚めればもう大丈夫だ」と判断し
また、仕事が溜まってもいた為、普通に出勤をしました。
私は寝込んでいるので、当然送り迎えはしていません。

昼近くになり、様子見の為に電話した冬寿が聞いたのは
錯乱していた私の発する、わけのわからない言葉でした。
彼は仕事を午前中で切り上げ、急いで帰宅しました。
冬寿の帰宅が13時。やはり連絡を受けた父親が駆けつけたのが15時。
私はまた、…「また」ばかりですが、三度…薬を飲んでいました。
そして、眠っていました。

この日、飲んだ薬は、正確な数がわかりません。
自分でそうしたのかなんなのか、薬のシートは
綺麗にポーチにまとめられていますが
…幸せであろうとなんであろうと、どこかで希死念慮を捨てきれない私は
実はこっそり、シートから出して小瓶に詰めた薬を所持していました。
それがすっかりカラになっていたのです。
ポーチの中には70数錠分の空シートがありました。
小瓶には、少なくとも30錠以上の薬があったはずです。
だから、この日飲んだ薬は、おそらく100錠以上あったのだと思います。

よく考えたら、日曜から火曜までの3日間で、200錠ほどの薬を
「大量服薬(オーバードーズ=OD)」したことになります。
これは、2003年の入院明け以来、到達したことのなかった数字です。
(到達っていうのも変かな…なんか偉業じゃあるまいし)
そして、この200という数字は
2001年の入院前、「もうこれは閉鎖に入れるしかない」と判断される直前
ODを何度も何度も…それこそ月に2回ペースでしていたころの
その「1度の(大量)服薬数」と同じ、でした。

一緒にいられると思ったのは
たぶん、間違いじゃない。
written by:Kyo Sasaki
☆メール☆
かこ : りすと : みらい

enpitu union