橋本裕の日記
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2008年02月20日(水) あふれるコピー言葉

 名優と言われる人は、あまりおおげさな身振りはしない。谷崎潤一郎も「ほんとうに芸の上手な俳優は、喜怒哀楽感情を現しますのに、余り大袈裟な所作や表情をしないものであります」(文章読本)と書いている。

文章も上達すると、おおげさな表現を使わなくなる。谷崎は「何事も忍びに忍んで病苦と闘いながらよく耐えてきた母」と書くのではなく、「病苦と闘いながら何事も忍んで来た母」と普通に書けばよいという。

そして自分が書くのであれば、「病苦と闘い、何事も忍んで来た母」と書くだろうと述べている。つまりは「おおげさな修飾語」を避けなさいということだ。ことばで飾り立てても、また難しい言葉を使っても、対象そのものがはっきり浮かび上がるわけではない。

たとえば、「星の王子さま」に「人生を理解している人(Who understand life)」という表現がある。これを訳者の内藤濯さんは、「ものそのもの、ことそのものを大切にする人」と訳している。「理解」とか「愛」「真実」「正義」「美」などいう抽象的な言葉を、私たちはともするとこれみよがしに使う。しかし、こうした言葉に頼ることで、私たちはともすると「ものそのもの、ことそのもの」の持つ豊かさを忘れ去ることになる。

「人類愛」を説く人が、平気で身近な人を傷つけたり、ないがしろにしていることがある。立派な道徳を説く政治家が汚職の常習犯であったりする。あるいは名高い哲学者や宗教家の本を読むことで、私たちは「生と死」といった人生の大事について、なんだかわかったような気になったりする。

作家の池澤夏樹さんは、朝日新聞に掲載された「政治と言葉」という評論を、「ここ何十年かの間に日本語の性格が大きくかわった」と書き出している。たとえばカップ麺のパッケージに「渾身の一杯です」と書いてある。しかし、誰もそれが「渾身の一杯」などと思って買うわけではない。

これはコマーシャルでつかわれる典型的な「コピー」の文体である。ところがいま、コマーシャルばかりでなく、日常生活や政治、ジャーナリズムの分野でも、あるいは経済や文学の分野でさえ、この誇張に満ちたコピー言語があふれている。「美しい国」とか「愛国心」などという流行語にもコピーの匂いがする。池澤さんは「コピーの文体を追い出せ」と主張する。

<これが今われわれの言語生活である。ある程度の嘘を含み、大袈裟で、見た目には派手で魅力的だけれど、しかし信用のならない言葉。だとしたら、政治家の言葉に嘘が混じり、事態が変わるとさっさと撤回されるのも当然ではないか>

<国の責務の第一は国民の生活を保障することである。その場には「コピー」の文体が入り込む余地はないはずだ。幻想ではなく現実としての政治を奪還しなければならない>

 観念の世界を構築することで、私たちは世界や人生への理解を深め、現実の支配者になることができたが、同時に生きた現実から遠ざかり、そのことによってどれほど貴重なものを失うことになったか、失われたものの大きさに気付くことも大切だろう。

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 私も力んでおおげさな身振りの文章を書くことがある。とくに対象に対する理解が行き届いていないときには、余計な修飾語や抽象的な言葉を書き連ねたりする傾向が強い。とくに昔の文章など読み返してみると気恥ずかしくなることが多い。しかし、書いているときはなかなか気がつかないものだ。

 私は朝日新聞の「声」に時折投稿している。紙面に掲載された文章を見ると、投稿した文章といくらか違っている。その違いを比べてみると、「なるほど、こう書くと文章が生きてくるな」と感心させられることが多い。掲載料をいただいた上に、文章の勉強までできるのだからありがたい。


橋本裕 |MAILHomePage

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