橋本裕の日記
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| 2007年08月23日(木) |
「国家の品格」を読む(1) |
セブで時間を見つけて、藤原正彦さんの「国家の品格」を読んでいた。右側のページに英訳がついているので、英語の勉強のために購入したものである。たしかにこれを読んでいると、「こう言いたい時には、英語でこういえばいいのか」と大変参考になる。
この本のタイトルは、英語では「The Dignity of the Nation」である。「はじめに(Foreword)」の冒頭に、藤原さんはこう書いている。
「30歳前後の頃、アメリカの大学で3年間ほど教えていました。以心伝心、あうんの呼吸、腹芸、長幼、義理、貸し借り、などがものを言う日本に比べ、論理の応酬だけで物事が決まっていくアメリカ社会が、とても爽快に思えました」
<When I was thirty or so, I taught for three years at an American university. In contrast to Japan, where unspoken understanding, instinctively sensing what other people are thinking, personally projection, respect for one’s seniors, and a sense of duty and mutual obligation count for so much, I found American society -----where everything is decided by logic---wonderfully refreshing.>
アメリカ社会ではすべてのことが「論理」で決められる(everything is decided by logic)というのは異論があるかもしれない。しかし、日本に比べて(In contrast to Japan)、アメリカ社会が「論理」を重視(count for)する社会であるというのは、ほんとうだろう。それは以心伝心(unspoken understanding)や情実(favoritism)を優先する日本社会とはずいぶん違っている。その理由を藤原さんは、次のように書いている。
「人種のるつぼと言われるアメリカでは、国家を統一するには、すべての人種に共通のもの、論理に従うしかないのです」
<The only way to keep a “melting pot” like the United States unified, it seemed, was to follow the dictate of logic, something that all people have in common.>
すべての人々が共通に持つ(all people have in common)もの、それが「論理(logic)」である。しかし、「論理」のような抽象物を共通項として国の統一を図るというのは、ほんとうに可能なのか。また、アメリカは実際そうなのか、私はこれに疑問を持っているが、今は深入りしない。
若い頃の藤原さんは、こうした論理重視のありかたに共感した。そしてそんなアメリカ社会がとても爽快に思えた(I found American society wonderfully refreshing)と書いている。
そして帰国後、この論理重視というアメリカ流を押し通して(do things the American way after my return to Japan)、教授会などでは自分の意見を強く主張し(state my opinions forcefully)、反対意見には容赦のない批判を加えた(relentless criticizing the opinions of others)。
しかし、結局(ultimately)、藤原さんは挫折した。自分の意見は通らず(my positions were never adopted)、会議の中で浮いてしまった(ended up being isolated at the meeting)のだという。(続く)
(今日の一首)
ひさかたに雨の音きく障子戸を 開ければ闇にひしめく葉音
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