橋本裕の日記
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先日、もう30年以上も前の卒業生から電話をうけた。同窓会で校歌を演奏し、みんなで歌いたいので、楽譜を送ってくれという依頼だった。さっそくファックスで送ったが、そのあとこんなことを考えた。
楽譜はあくまで紙にかかれた記号である。それを書いたのは作曲家だ。作曲者は自分の頭に浮かんだメロディや楽想を音符に書き留める。おそらく楽譜を書く作曲者の頭の中には生々しい「音楽」が鳴り響いているのだろう。それは豊かなクオリアをもった存在だが、それを記号化した楽譜はもはやそうではない。極言すれば紙の上に記された「黒いインクのしみ」でしかない。しかし楽譜を受け取ったひとは、この黒いインキのしみから、再び質感にあふれた音楽を再現する。
楽譜に書くということは、音楽という色彩豊かなアナログ的具象を、白黒のデジタル情報へ「抽象化」することである。いわば、「色」から「空」への変換だと言ってもよい。しかし、そうして抽象化された情報は、演奏家によって再び生命を吹き込まれ、豊かなクオリアをもった具象へともたらされる。これを「空」から「色」への変換とみなすこともできる。
このことは音楽の演奏に限らない。私たちの言語活動も基本的にはこの、「具象から抽象、抽象から具象」という変換からなりたっている。言葉という色や香りを喪失した抽象的な存在を媒介にして、私たちは豊かなクオリアをデジタル情報に置き換え、またそこからクオリアを再現したりする。私たちが「言葉能力」と読んでいるのは、こうして「抽象化」と「具象化」という二つの過程から成り立っていることがわかる。
文学作品を創作するためには、「抽象化」の能力がすぐれていなければならない。しかし、そうして創作された作品を鑑賞するには、文章を読んでこれをまたもとの現実に戻すという「具象化」の能力が要求される。「抽象と具象」という両者が働きあって、私たちの言語生活が成り立っている。
そしてこの「具象の抽象化」と「抽象の具象化」は言語活動や音楽活動に限らず、私たちのあらゆる文化的な活動の基盤にもなっている。たとえば、ラジオやテレビの原理も、じつのところこのしくみで説明される。ラジオの場合は、マイクロフォンによって、私たちの「声」が抽象的な存在である電気信号に変えられる。そしてこれを電波で飛ばし、最終的にはスピーカーがこの電気信号を「声」へと変換するわけだ。
声(具象)→電気信号(抽象)→声(具象)
現在の情報理論は、文章だけではなく、あらゆる音声や映像までも、「0」と「1」という二つの数字の列に還元する。その結果、私たちを感動させる映画も、じつのところDVDという記憶媒体では無機質なこの二種類の記号の羅列に置き換えられている。しかし、この記号の行列から、色彩豊かなかぐわしいクオリアがふたたび産みだされる。
(今日の一首)
なにごとも色即是空しかれども 空即是色でこの世は楽し
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