橋本裕の日記
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2007年06月23日(土) 総選挙を延期

 昨日の衆院本会議で国会の会期を12日間延長することが与党の賛成多数で可決された。そして参院選の投票日も22日から29日に繰り延べになる。この国会で社会保険庁改革法案や国家公務員改正案などを成立させるという。年金問題などで傷ついた内閣の威信を回復させたい安倍首相は「どうしても成立させなければならない」となかなか強硬である。

 野党側はこれに反発した。民主党の菅直人代表代行が記者会見で「年金問題への国民の注目を、何とかほかのものに移したいという政治的意図をもっての強引な延長だ」と批判した。異例の会期延長には与党内部からさえも「投票日の変更は不安材料が大きくなる」(古賀誠)などと批判の声が上がっている。

 たしかに22日実施で動いていた自治体や請負業者はたいへんである。会場の確保や印刷物や看板の変更もしなければならない。すでに予定されていた民間のイベントにも支障が出てくるだろう。また、これによって自治体は余計な費用を捻出しなければならなくなる。過労や精神的重圧で自治体関係者に自殺者がでるのではないかと心配する人もいる。

 国会の会期延長で私が思い出すのは、米英開戦の翌年、昭和17年4月30日に行われた総選挙だ。じつはこの総選挙は本来は前年の昭和16年に行われるべきものだった。ところが当時の近衛内閣は、日中戦争が思うような成果をあげず、世論が政府に批判的だと判断して、特別立法で総選挙を1年間延長した。

 その間に戦争準備を進め、太平洋戦争を開始した。真珠湾攻撃のあと、連勝祝賀でわきたつ世論を背景に、東条内閣は万全の下準備のもと総選挙を行った。この翼賛選挙で、政府の推薦候補はひとりあたり5千円の資金援助をうけるなど、政府や軍部から手厚い援助をうけた。在郷軍人会や町内会、隣組の常会が開かれ、内相自らがラジオを通じて全国民に「翼賛選挙」の意義を訴えた。新聞や雑誌もこぞって翼賛選挙を応援した。

 これに加えて、非推薦の候補には官憲による厳しい取り締まりや恫喝、いやがらせが加えらた。その結果、東条政権をささえる翼賛政治協議会が推薦する466名の候補のうち381名が当選した。これによって、東条政権は戦争を遂行する上で独裁的な地位を掌中に収めた。

 しかし、予定通り昭和16年に選挙が行われていたら、結果は違っていただろう。このころ国内には泥沼化する中国大陸での膠着した戦況に国民の間で厭戦気分が蔓延し始めていたからだ。たとえば前年の昭和15年2月2日、斎藤隆夫議員は時の米内光政内閣に対して「支那事変処理に関する質問演説」を行っている。

「一体支那事変はどうなるものであるか、何時済むのであるか、何時まで続くものであるか。政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待せない者は恐らく一人もないであろう。

 ・・・此の現実を無視して、唯(ただ)徒(いたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」

 傍聴席は超満員で、議場は拍手の連続、感極まってすすり泣きの声さえ聞こえたという。これに軍部は激昂した。そして軍部の圧力のもとに議会において斎藤議員除名動議が出され、傍聴人を退場させた秘密会議において決議された。しかしこのときでも、3分の1の議員が棄権し、なお堂々反対票を投じた議員が7名いた。

 その後ますます、大陸の戦況は膠着した。昭和16年になると、さすがに政府も軍部も手詰まりだった。戦争気分を盛り上げていたジャーナリズムの論調も変わり始めた。国民の厭戦気分はさらに広がっていった。このムードを一変させたのが、日米開戦であり、その後の華々しい戦果の報道だった。作家の阿川弘之は当時を振り返ってこう話している。

「ぽろぽろ涙が出てきた。支那事変というものは、はっきりとした情報があたえられていないにもかかわらず、憂鬱な、グルーミーな感じだったのに、それがなにかすっきりしたような、この戦争なら死んでもいいやという気持になりましたね」

 東条内閣はこうして昭和17年の開戦後の選挙で大勝した。しかし、この選挙でも「反軍」を貫いた人たちはいた。国会で反軍演説を行い、議員の身分を剥奪された73歳の斎藤隆夫も除名決議をものともせず、再び立った。当局は斎藤の演説用印刷物を「有害」として押収するなど、さまざまな妨害工作を図ったが、齋藤は堂々但馬選挙区の最高位で当選した。

 連続当選20回、東京市長をはじめ、文部大臣、司法大臣を歴任した尾崎行雄はすでに82歳だったが、いささかもひるむことなく、無所属で立候補した。これをよしとしない官憲は、尾崎の応援演説の中に天皇に対する不敬があったったとして、投票1週間前に逮捕し留置所に拘置する。にもかかわらず、彼も獄中で当選した。

 じつのところ、翼賛会「非推薦」で当選したのは85名にも登った。419万票、34パーセントの票が非推薦候補に投じられた。これだけの人たちが、東条内閣に批判的だった。その中には東条は手ぬるいというさらに過激な軍国主義者もいたが、反軍の立場に立ち、議会政治を守ろうという代議士や、これを応援する良識のある国民も大勢いた。

 国政選挙を1年間も繰り延べするなどということは、憲政上きわめて異常なことだが、この間に太平洋戦争が勃発し、世論が一気に政府や軍部に友好的になって、東条内閣は助けられた。これにくらべて、今回の投票日の繰り延べはわずか1週間だ。これが安倍内閣にとってはたして吉と出るかどうかもわからない。

(今日の一首)

 朝刊をひろげてみればおおかたは
 痛ましきこと恥ずかしきこと


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