橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2007年02月01日(木) 英語をファイナライズ(1)

 DVDデスクは記録しただけでは駄目で、ファイナライズしないと使えない。どうように、英語もただ知識を頭に蓄えるだけでは駄目で、ファイナライズしないと使い物にならない。犬を英語でDOGというとか、動詞の活用形や文型についての知識をどんどん蓄えれば、試験の偏差値はあがるかも知れないが、ただそれだけのことだ。

 たとえばここに飛行機がある。大型の飛行機にいくらガソリンを積み込んでも、操縦法を知らなければ大空へは飛び立てない。滑走路をただ走り回っているだけでは飛んだことにはならない。しかし、私を含めて、ほとんどの日本人の英語はこうした状態ではないだろうか。

 もっともっと勉強して、うんと知識を蓄えれば、いつか英語が自由に話せるようになるというのは幻想でしかない。なぜなら、英語が使えるようになるためには、ただ知識を蓄えるだけではなく、これを活用できるように「ファイナライズ」しなければいけないからだ。

 学校では知識は教えてくれるが、「ファイナライズ」することは教えてくれない。いや、あらゆる学習にはそうした大切な仕上げがあることを教えてくれない。その理由は、教師自らがそのことを自覚していないからだ。知らないことは他人に教えることができない。

 知識を蓄えるにはそれなりの努力と時間を必要とする。たとえば、DVDデスクにひとつの番組を録画するには1時間かかる。ところが、これをファイナライズするのに必要な時間はわずか3分である。この3分の「最後の仕上げ」を省略すると、60分が無駄になる。もったいないではないか。

 中学、高校と6年間英語を勉強し、家に帰ってからもねじり鉢巻で英単語を覚え、文法を暗記しても、最後の仕上げを怠ると、それは結局大学受験にしか用のない「英語についての知識の所有」でしかない。コミュニケーションの道具としての生きた英語力にはならない。

 ようするに「知識」を溜め込むだけではなく、これを活用できる状態に自らの中で「再構築」することが必要である。こうして自ら体系化され、自らの原理のもとで再構築されることで、知識ははじめて活性化し、借り物ではない本当の「生きた知識」になる。ここから独自のパワーが生まれる。

 これはもちろん英語だけではない。「数学」にも「倫理社会」にも「国語」にも、あらゆる教科の学習にあてはまる。しかし、英語を例に取ると、私たち日本人には、いちばん切実でわかりやすいのではないだろうか。

 たとえば私がセブで出あったA子さんは、英語がうまかった。一緒に遊びに行っても、英語を使って、チャーターする船の代金を値切ったり、なかなかタフなネゴシエーターぶりだった。そんな彼女は学校ではおちこぼれで、英語の成績は2しかなかったという。英語が大の苦手だった。たしかに、セブの学校でも私と同じクラスにいたということは、選別試験の成績がよくなかったわけだ。

 たしかに英語の文法も、単語のスペルも、かなりあやしい。私のほうが上だ。それでいて、私はほとんど英語が話すことができなかった。彼女はそんな私を尻目に、はるかに上手に英語を話し、聞き取ることができる。字幕なしで洋画も見ているというから、かなりのレベルだ。

 不思議に思っていろいろと質問した。その結果わかったことは、彼女が英語を話すきっかけは、カナダ人の男性と友人になったことらしい。そして気がついてみると、学校で劣等生だったA子さんが、まわりのだれよりも英語が話せるようになっていた。

 どうしてこんな奇跡が起こったのか、それは、これまで彼女の中で蓄えられていた英語の知識が、彼氏によってファイナライズされたからである。とぼしい知識であってもファイナライズされた知識は、見違えるようなパワーを彼女に与えてくれる。彼女の場合、英語でこのことが起こったわけだ。

 だから、英語力を飛行機でたとえると、ガソリンを丸呑みしてますます重くなり、滑走路をのはじをノロノロ動いている頭でっかちの大型機を見下ろして、彼女の軽飛行機は自由に空を飛びまわることができたわけだ。

 それでは、いかに英語をファイナライズするか。これは学校教育ではほとんど触れられていない。私にはいささか手に余るテーマだが、自分のささやかな体験を踏まえながら、あえて蛮勇をふるって書いてみよう。(続く)

(今日の一首)

 雪山もかすんでいたり大寒に
 上着を脱ぎて散歩するかな


橋本裕 |MAILHomePage

My追加