橋本裕の日記
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暴力的なビデオゲームが世界中で流行している。1999年にコロラド州コロンバイン高校で、二人の少年が銃を乱射し、生徒と教師14人を殺すという事件が起きた。彼らが愛好していたのは、「Doom」という「殺人ゲーム」だった。これは米軍が効果的に殺人を行う訓練用に使用していたものだという。
このシューティングゲームはさまざまな設定で殺人を楽しめるようになっているが、少年たちが好んでいたのは、予備の武器と無尽蔵の弾薬を持った2人の射撃手と、反撃が出来ない敵だけが登場する「ゴッド・モード(無敵状態)」という設定だった。仮想世界で殺戮に熱中していた彼らは、いつか現実世界でも自分たちは全能だと錯覚したのかもしれない。
人間は弱い存在である。しかし「武器」を持てば、百獣の王のライオンをも倒すことができる。文明の発達は、「行為者」としての人間にパワーを与えた。文明の利器を手にすることで、人間は自らを強者の位置にすえ、他者を支配することができる。こうして人間はもはや自然に従属する存在ではなくなった。人間こそが世界の主役なのである。
私たちのことばは、自然のなかで、自然と共存して生きていた時代に作られたものである。言語構造はいまなおそうした時代の遺産をうけついでいる。とくに私たちが母国語とする日本語は、こうした「自然言語」としての特徴を色濃く持っているのではないだろうか。
父が助けに来ると思われる(自発、可能) 警官に泥棒だと思われる(受身) 先生は私たちの将来を思われる(尊敬)
日本語では「れる、られる」といった「自発表現」が、同時に「可能」や「受身」の意味に用いられ、「尊敬表現」にまでなっている。それは意志を持って「為す」ことよりも、「自ずからある」ことに価値をおくからだ。また、これまで見てきた日本文の構造からも、「主語」中心の「する論理」ではなく、「述語」中心の「ある論理」の優勢が認められよう。
「ある論理」の世界では、自己と他者、人間と自然を峻別する意識がうすい。荒木博之さんは名著「やまとことばの人類学」(朝日新聞社)にこう書いている。
<「可能」が「自発的受身」的「られる」によって表現されている意味は何なのだろうか。それは日本人にとって何かが可能であることは、みずからの主体性においてそれを可能にするのではなく、「可能」が他律的に没主体的に与えられるものであったからである。その心を「れる」「られる」という助動詞にこめているのである>
<そこには個人としての主体的意志の介入する余地はない。そういった心のあり方を日本人は「る」という「自発可能」的表現にこめていいあらわそうとしたのであろう。この場合の「自然」というのは、単なる天然自然のみを指すのではない。それは天然自然を、あるいは共同体の論理をも含めた、個人を超越し、個人を支配する何かでなければならなかった。ここに「自発」と「可能」という、欧米人から見るならば、まったく相反する命題がひとつに結びつき得るという、日本的な独自の言語現象が生まれる必然性が存在しているのである>
<そして、その中核的意味としての「自発」「自然展開」が、日本人のあらまほしきあり方、すなわち、価値としてその存在を主張しているとき、「自発」が「尊敬」へとその意味的展開を遂げてゆくこと、まことに自然の筋道であるだろう>
<こういった人間関係のあり方としての「和」が最高の徳目とされ、「自己滅却」が共同体の論理において常時要請される共同体構造の中で、共同体の成員が自己実現の方途として必然的に体得してゆく方策は、自己実現を「自我」の否定において、「他人との連帯」において実現化しようとする仕方、すなわち「自然展開」的、「自発」的に自己実現をはかってゆく方法でなければならなかった>
<自己実現を「自我」の否定において現実化しようとする仕方は、宗教、哲学的思索の筋道になかでは「無」の思想として結実する。禅のみでなく、茶道・武道など日本のすべての芸道において、つねに「無」の境地、「無の思想」が説かれるのは、私をしていわしむれば、決して偶然のことではないのである>
私たちは、「お茶を入れました」とはふつう言わない。「お茶が入りました」と、あたかも「お茶」がひとりでに出来たような言い方を好む。行為者を表に出さず、言葉の表から消してしまう。そして、このような自己主張しない表現が上品で、美しいものだという文化的な価値観の中で、慎ましく自然に呼吸してきた。
しかし、世界は大きく変わろうとしている。そしてそのなかで、多くの言語の性格が「ある論理」から「する論理」の世界へと変化してきた。その先頭を走っているのが、いち早く市民革命と産業革命を成し遂げ、合理的な世界の認識を武器にして、政治的、経済的、軍事的に世界の覇権を握ったアングロサクソンである。彼らが自由に駆使する英語は、「自発可能」をよしとする日本語の価値観とは無縁である。そしてその自己主張を専らにするパワーはあなどれない。
行為中心の構造をもつ現代英語は、自然や社会を変革するには大いに有効である。英語を習得することで、私たちもまた、合理的に世界を把握し、進んで自己主張のできる、主体性のある人間に生まれ変わることができそうだ。自然であることを尊重する「ある論理」はともすると体制順応の保守主義におちいる。またいわれなき権威崇拝にもなる。私たちは自らの主体性を確立し、人間としての独立自尊と行動の自由を獲得するためにも、現代英語の特性である人間中心の「なす論理」から多くを学ぶべきだろう。
しかし、人間中心の「なす論理」への一辺倒はまた新たな危機を生み出しかねない。「なす論理」の独走は、自然や社会を自らの欲望や野望を達成するのための手段としかとらえない自己中心の風潮をう産み出しかねない。これによって、共同体の和が破壊され、人間同士の対立と抗争が常態化するばかりではなく、自然までもが収奪され、生態系が破壊されることになる。こうした「個人の自由」に名を借りた利己主義の暴走に歯止めをかける社会システム、あるいは言語システムを、私たちの世界は今まさに必要としているのではないだろうか。
日本語は膠着語と呼ばれ、確固たる論理構造をもたない世界でも特殊な言語であるという西洋の言語学者の見解がある。しかし私たちは日本語によって、世界を認識し、人々と意思疎通をはかり、この日本という国のなかで豊かな自然と共存して平和に暮らしてきた。そうした私たちの生活と文化を根底でささえてきたのが日本語である。
日本語もまた、その内部にさまざまな限界をもちながらも、独自にすぐれて論理的であり、世界に通用する普遍性をそなえた言語ではないだろうか。私のこの小論は、そうした日本語の論理性と普遍性を、「てにをは」を中心とする文の構造のなかに探り出し、あわせて世界の言語の本質と現状にも思いを及ぼそうという、一つのささやかな試みである。
(今日の一首)
うつくしき母国語ありて世の中も わが人生も幸あふれたり
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