橋本裕の日記
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2006年10月29日(日) それでも生まれたい

 グッドバイ・マイをやることに決めてから、とうぜん何度もシナリオの読み込みをした。しかし、3週間でひとつの劇を仕上げるのは大変だった。出演する7人の部員は全員1年生で、部長をのぞけば演劇の体験はない。彼等はとにかくセリフを憶えることに必死だった。シナリオの深い意味を考える余裕はなかった。

 片手を失うことになる黄郎は、最後に舞台の中央で両手を大きくかざし、「おまえがなくてもがんばるよ。約束するよ。グッドバイ! マイ!」という。これは生まれ落ちると同時に失うことになる自分の手に語りかける言葉である。

 しかし、この役を演じたM君は前日まで、このセリフをマリアさんに向かって言うのだと思っていた。だから、どうしてもセリフを口にしながら顔を上げて両手を見ようとしない。何度言っても顔がうつむいてしまう。この場面だけでも何十回もやりなおす羽目になった。そしてやっとできるようになった。できるようになったのは、彼がこのセリフの意味に気付いたからだ。

 その少し前に、黄郎がマリア様に「ぼくの母は、僕の手を見て泣いたことある?」と問いかけている。マリア様に「ないですよ。一度もありません」ときっぱりと言われて、黄朗は「そう、よかった」と嬉しそうな表情をする。このシーンもとても大切なのだが、M君はなかなかセリフを憶えることができなかった。何度やっても飛ばしてしまうのである。

 黄郎は片手のない自分の苦難の人生を思い、生まれ出ることを逡巡する。しかし、それだけではない。黄郎はもうすこし深く色々なことを考えている。たとえば、自分が生まれることで、母親を哀しませるのではないかと考える。その気持の現れがこの「そう、よかった」という一言である。黄郎というのは、思慮の深い心の優しい子なのだ。

 厖大なセリフなので、小さなセリフのスキップはしかたがない部分もあるが、このセリフは飛ばしてほしくなかった。それにもし、このセリフの意味を理解していたら、M君もスキップしたりしないはずだ。したがって、この部分は発表の前日、M君だけを残して、その意味を十分に考えてもらった。

 じつはタイミングがいいことに、その前日、私は掲示板で、ある人から日野草城の句について教えられた。ここにその文章を引用させていただこう。

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 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く 日野草城

 「自愛句」というジャンルがあるのなら、私は掲句と<浜までは海女も蓑着る時雨かな(瓢水)>をベスト2に選びたい。この二句に共通するのは「見えない方のレンズを拭き」、「濡れるのに蓑を着る」という一見、無駄な行為である。読む人の中には、こうした行為に不可解さを感じ、これらの句のよさが解からない人も多いのではなかろうか。

 かつての私もその一人だった。しかし、「自愛」ということについて、考え方が変化するにつれて、この二句の深みが最近少し解かるようになった。それは「自分の肉体」についての考え方の変化にともなっている。つまり、我が肉体はあくまでも自分のものなのだから、どのように酷使しようが、甘やかそうが私の勝手である、という考え方から、我が肉体は「大いなる存在」からのかけがえのない借り物なのだから、存分にいたわり、大切に使わせていただこう、という考え方への変化である。草城句の「眼鏡の玉」を拭く行為は、機能を失った器官であればこそ、かえって神聖な行為に思えてくる。

http://8219.teacup.com/hashimotofanclub/bbs?OF=10&BD=12&CH=5

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 日野草城にこんないい「自愛句」があるとは知らなかった。keizoさん、どうもありがとう。グッドバイ・マイの上演を前にして、これもまたこの作品の解釈を深めるのに大いに助けになった。


橋本裕 |MAILHomePage

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