橋本裕の日記
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| 2006年09月29日(金) |
こころの専門家は必要か |
私たちが社会のなかで不適応に苦しみ、何らかの精神的不調に見舞われたとき、その解決法として2つの方向性が考えられる。
一つは社会の環境を変えることである。社会のありかたの中に大衆心理のメカニズムを探り、社会病理としてこれを捉えるフロムの「社会心理学」の立場はこれに近い。
これに対して、心ありかたを探り、心そのもののを変えることで、社会的不適応を正そうとする心理主義の立場もある。社会や環境はそう易々と変えられるものではない。そこで、そうした環境の中でも、その環境に押しつぶされない強くてしなやかな自己を育てようというわけだ。
コフートの「自己心理学」の立場はこれに近い。もっとも、コフートも社会変革の必要性を視野にいれていないわけではない。自己と他者の「関係」を重視しているからである。そして両者の関係は相互的なものだからだ。
しかし、今日流行している心理療法的な手法が、社会を捨象し、社会的関心から遠ざかる傾向があることも事実である。心の持ち方を変えて社会に適応するというのでは、麻薬や薬物依存とかわらない。
こうした心理療法の現状を告発する小沢牧子さんの「心の専門家はいらない」(洋泉社)は、なかなか刺激的な本である。小沢さんは専門教育を受けた臨床家であり、大学で教鞭を執る「心の専門家」であるだけに説得力がある。少し引用しよう。
<「心の専門家」待望の背景には、人間の関係に渇望しながら、それをおそれる人びとの心情が渦巻いている。そしてそれぞれが心の専門家に個別に依存することで、この風潮はいっそう強まり、悪循環を生じていく>
<カウンセリング願望の背景には、おたがいを値踏みしあう競争社会が広がっているが、「心の専門家」は基本的に没社会的・個人還元的で、問題を社会の問題としてではなく、個人の資質や家族のいたらなさ、つまり個人の問題へ閉じこめていく役割を担っている>
<カウンセラーになりたい人、「心の専門家」志望者がじつに多い。受けたい人よりなりたい人の方が多いのではないかとすら感じるほどの増え方である。そのなかの一人が正直に述べていた。「自分がひとりになるのではないかと怖い。でもカウンセラーになれば相談にくる人がいつもいて、ひとりになることはないだろう」。受けたい人もなりたい人も、その背景に臆病さと孤独への強い不安を抱えている。日常の関係に目を向けることを避けた「心の専門家」依存と救済願望は、ここでも悪循環を生みだしていく>
<個人主義を社会の基盤とするアメリカ社会の人々は、個人生活の充足感を高めるためにカウンセラーを「雇い」、かたやタテの位置関係のなかに相対的な自分を見いだす日本社会の人びとは、依存し甘え安らぎを得ることができる場をもとめて、カウンセラーに「頼る」>
<私たちの社会は、ほとんどのものの商品化・サービス化をすすめてきた。衣食住はもちろんのこと、身辺のトラブルは弁護士に、子どもの生活は教育産業に、介護・介助は福祉サービスに、人の誕生から死までを医療に依存するようになっている。臓器・生命まで売り買いが進む。ラクな生活を手にした代わりに、その事態からわたしたちはシッペ返しを受けている>
<金銭で買わない、または商品化をためらってきたものが、ほんの少しだけ残っていた。それはわたしたちの生活の核の部分、つまり自分たちの気持ち、感情、また身辺の人びととの関係の領域だった。性もそこに含まれる。足もとにほんの少し残る乾いた砂地、そこに波が及ぶことによって、わたしたちはまるごと運び去られ浮游することになるだろう>
<生き方を専門家や行政にまかせるということは、自分の足で歩かず、自分たちで工夫せず。権威を持つものによろしく生かしてもらうことにつながる。「正しい生き方を指導してもらう」という、受け身な心性である。この傾向がわたしたちの社会に強まっていることを感じている人は、少なくないに違いない>
<関係をどう引き受けていくかは、生き方の基盤であるが、それは手間ひまがかかり模索と工夫と辛抱が必要なものだ。だからこそ自分のもの自分たちのものと感じることができる>
<いま、人と人とが消費・情報化社会の波に呑まれてバラバラになり、それこそ「金の切れ目が縁の切れ目」の関係に持ち込まれている。その心もとなさのなかにあっても、縁という偶然に繋がれる人の関係と、その関係に束縛・拘束もされながら繋がりを切らないという智慧とモラルを、生活の中に育てたいと願う>
<「心の専門家」とクライエントの関係は、「深くして親しくない関係」(河合隼雄「カウンセリングと人間性」)だという。それは専門家の側が相手を「深く」わかったつもりになり、しかし治療者の「分別」と技法をもって近づかないようにする、不自然でまがいものの関係なのだと、私は思う。
日々生活するわたしたちは、そのような一方的な世界に巻き込まれたくはない。「深くして親しくない関係」ではなく、「深くはなくとも親しい関係」をそれぞれが周囲に広げていくことが大切なのだ。そのなかではじめてわたしたちは「相談という商品」を、「いっしょに考え合う日常の営み」へととりもどす道を見いだしていけるだろう。
そしていつのまにか、かけがいのない「深く親しい」関係になっていくかもしれない。「心の専門家」の氾濫と、それを喧伝するマスコミ、そしてそれに浸食されていく世の中への強い気がかりから、この書を著した>
コフートは「患者は自分の力で治癒する」ということを原則にしている。心理療法はクライエントが自己愛を確立するのを助ける存在でしかない。そのとき大切なのは、治療者の患者に対する深い理解と愛情だろう。「深くして親しくない関係」(河合隼雄)といったよそよそしいものではありえない。
自己愛は他者愛と一体の関係にある。自己愛が欠如し、他者愛に乏しい人間が、今日まさにその欠如ゆえにカウンセラーにあこがれ、これを職業にしているとしたら問題である。そもそもカウンセラーなどという「こころの専門家」がはびこるのは、それだけ社会が「共感力」を失っていることのあかしなのだろう。
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