橋本裕の日記
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2003年01月18日(土) 日中国交回復の舞台裏

 昭和47年9月1日、角栄はハワイでニクソン大統領と会談した。二日後の共同声明で、「日中国交回復は世界の緊張緩和に役立つ」とうたわれ、田中は日中国交回復に向けて、アメリカのお墨付きを得た。こうして、角栄は9月25日に中国へ旅立つことになった。

「日本の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。国益を最優先して、向こうと丁々発止とやる。いよいよとなったら決裂するかも知れないが、その責任は俺がかぶる」(佐藤昭子「私の田中角栄」)

 角栄は日中国交回復の旅に出れば、生きて帰れないかも知れないとひそかに心構えをしていたという。。その頃、「国賊・田中角栄」のビラが街中に貼られ、右翼が街宣車を連ねて、官邸周辺で吠え立てていた。角栄の演説会場で、刃渡り30センチの刃物をもった男が逮捕されたり、いきなり車の前に飛び出して寝ころぶ男や、田中事務所に「あわせろ」とどなりこんでくる男もいた。

 角栄が北京に旅立つ日には、血判書つきの抗議文を懐に、猟銃と刃物で暗殺を企てた右翼の青年が警察に逮捕された。実際に田中首相暗殺計画があったようである。台湾との関係を絶ち、共産主義の中国と仲良くしようというわけだから、右翼は反対する。しかし、こうした中で、田中は世界の情勢を見据えて、この決断をした。

 周恩来との会談はかなり厳しいものだったらしい。焦点は台湾問題だった。台湾を中国の一省だと主張する周恩来にたいして、同行した高島条約局長が厳密な法律論を展開して、これに反対した。これに対して、周恩来は日中国交回復問題は政治問題で、法律問題ではない。高島は法匪だとまで言った。田中もこれに対して言い返した。

「賓客にまねかれ、供の従者を非難されたときは、主賓にも帰れと言われたことになります。それが日中共同の文化ではないのですか」
 これに対して、周恩来は日本軍が何年、どこの戦いで、何万人殺したと、数字を際限なく上げはじめたという。田中の血圧は200をこえ、鼻血を出すほどだったが、持ち前の粘り腰で望み、希望を棄てなかったという。

「おれは周恩来にこう言ったんだ。今はあなたにとって大きなチャンスですよ。日本では会社と交渉するときは、トップが交代して新しい社長と商売するのが、一番有利なのです。新しい社長には社内の期待もあって、大きな裁量の幅を与えるからなのです。私は今、日本という会社の新しい社長なのだから、あなたにとって大きなチャンスなんです、とね」(野上浩太郎「政治記者」)

 こうしてとにかく交渉は妥結した。このときすでにガンにおかされていた周恩来は、10年来医者から禁止されていて口にしなかったマオタイ酒で乾杯し、田中の一行を毛沢東のもとへ案内したという。
「もうけんかはすみましたか。けんかはしなくてはいけません。けんかをして、はじめて仲良くなるのです」
 毛沢東は角栄に声をかけ、二人は固い握手をした。このとき角栄のみではなく、随行した大平や二階堂まで毛沢東との対面を許されたのは、中国側の破格の厚遇だったという。

<今日の一句> たましいの 蒼き深さよ 冬の空  裕


橋本裕 |MAILHomePage

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