橋本裕の日記
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30.チーズの匂い K子は正午を少し過ぎてからやってきた。チャイムの音に、おそるおそるマジック・アイから覗くと、おかっぱ頭のK子が胸の前に箱を抱えて微笑んでいた。いつもと少し印象が違って見えたのは、口紅をしているせいだろう。
「やあ、よく来たね」 「車の免許がとれたの。車も買ったの。試運転よ」 薄地のセーターを透して胸の膨らみが露わになっていた。水色のキュロット・スカートがいつになくおしゃれに見えた。いつも素肌のままのK子が珍しく薄化粧をしていた。そのせいか、いくらか女の雰囲気が漂っていた。
私が玄関口に立ったまま見つめていると、彼女は靴を脱いで、さっさと台所に上がって行った。箱から取りだしたピザが甘く匂った。 「お湯を湧かしてくれる。私、紅茶も持ってきたのよ」 いつS子が姿を現すかも知れない。できればすぐにでもK子を外に連れ出したかったが、成り行きでピザを食べないわけには行かなかった。
ところで、私はピザを食べたことがなかった。チーズの匂いに、手が止まった。 「ぼくは納豆とチーズが駄目なんだよ」 「どうして」 「この匂いがね」 チーズは無理をすれば食べられない訳ではなかった。それで、少し囓ってみた。 「無理しなくてもいいのよ」 K子が笑顔でとりなしてくれたので、私は食べかけの一切れを皿に戻した。
紅茶を飲み終えると、腕時計を見た。K子が二切れ目を食べ終えて、 「何だか、へんね」 「どうして?」 「さっきから、時計ばかり気にしているのだもの。誰かと約束でもあるの」 「そんなことはないさ。どうだい、外へ出ないか。君の車でドライブでもしないか」 「いいわよ」 K子の表情がぽっと花が咲いたように明るくなった。
<今日の一句> ほのぼのと 電気毛布で 春の夢 裕
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