橋本裕の日記
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今日も又、「戦争を語り継ごうリンク集」のなかの「原爆」のページから手記の一部を紹介しよう。作者は広島原爆で被爆した今は亡き歌人の満田廣志(当時42歳)。「山河慟哭」には自らの被爆体験と、犠牲になった愛娘への痛恨の思いが和歌と文で綴られている。
<人々は生きながら焼かれて、どんなに水が欲しかっただろうか? 磧(かわら)には焼け焦げた少年少女たちが、折り重なるようにして死んでいた。水を求めて川に下りてゆき、力尽きたのであろうか。
磧には焼け焦げし子ら重なりて死にゐきいかに水や欲りけむ
材木町と思われるあたりで、私は学校の名と娘の名を連呼して行ったが、返事は返ってこない。あの娘はもう生きていないのだろう。
「第二国民学校の者は居らんか?」と、声を限りに叫びながら、屍体の間を縫うようにして行くうちに「第二国民学校いまァす。先生助けて」という声をたしかに聴いた。学校から救いに来たと思ったのだろう。それは幻聴ではなかった。その子は川の畔の石に腰かけていた。私は自分の目を疑った。被爆後六時間も経っているのにこの子はまだ生きていた。
顔は黒いゴムまりのように腫れ膨れており、ブラウスももんぺも焼けて半裸の姿で、毛髪は焦げて坊主頭に近かった。
久美子のことを尋ねると「満田さんとは点呼の時まで一緒でしたが、そのあとは分かりません」と答えてくれた。水を乞われたのに死を早めることを恐れて、拒んだ私は、あとで自分の性(さが)を憎んだ。そしてこの瀕死の子に、自分勝手な質問をしたことを恥じた。
この付近には、同じ学校の生徒と思われる娘たちが、十人くらいまだ生きていた。 私は久美子の生存を信ずる気持を全くなくしてた。せめて亡骸(なきがら)だけでも見付けたいと思い、沢山の焼け死んだ少女たちの顔を見て廻った。うつ伏せになって死んでいる子はひっくり返して見ていったが、この作業はなかなか辛い仕事であった。
学校の名を呼びつぐにいらへありかぼそかれどもまだに級友の声 生きながら哀れ真処女焼かれたり玉の肌はや黒髪もはや 吾娘が級友十人がほどは行きゐしが空しかりけりその翌日は 現世に地獄の相(すがた)今ぞ見ぬ無惨と言ふも愚かなるかな 原子野にわれ呼びつかれ泣きつかれ子をし恋ふれど吾子はあらなく 探しぬれど吾子のあらねばほとほとに神も仏もなしと思ひぬ 鬼さへや哭かむ地獄の原子野を神仏たち如何思召すらむ いとけなきあまた人の子失ひしかかる無惨は何の業ぞも 久美子が生きていないということはもう確定的である。どの顔もゴム風船のように一様にはれ膨れていて、人相の特徴など識別はほとんど不可能に近い。私は久美子の遺体を発見する努力も、所詮は空しいと思って一つの決心をした。 それはさっき、僅かではあるが語り合った彼女を、久美子の代りと思い助けようとのもくろみであった。そうすることが久美子の供養にもなると思った。
私が彼女のそばに行ったら、まだ生きていてくれた。救急袋から背負帯をとり出して、彼女をおんぶしようとしたら、指の先まで垂れ下がっている皮肉も千切れそうだし、からだ中がずるむけてしまいそうで戸惑った。それに考えてみると、あの線路が中に浮いている鉄橋を、どうして渡るかも問題であった。
この娘は可哀想であるが、他にも十人近くの生徒が生きている。これはどうしても可也の数の人手が要る作業だと判断した。日の暮れないうちに、一刻も早く学校に報告することが肝心だと考え直した。
この日は終日、広島の空は煙や埃に覆われて、漸く西に傾いた太陽は、濁った空気のスクリーンを通して、気味の悪いくらい嫌な血の色だった>
<今日の一句> いとけなき 被爆少女よ 骨もなく 裕
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