橋本裕の日記
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2002年07月17日(水) 日蔭の二人

 映画「日蔭の二人」を見た。イギリスの小説家トーマス・ハーディの名作「日蔭者ジュード」を映画化したものである。原題は「Jude」で、1996年の英国映画。監督はマイケルウィンターボトムである。

 田舎に住むジュードは大学に入学するのを夢見る若者で、村の娘と結婚するが、性格の違いから生活はすぐに破綻する。ジュードは大学のある都市に移って石工として働き始め、聡明で快活な従妹スーに出会う。

 やがて二人は正式に結婚しないまま共同生活を始め、子供を育てるが、宗教に懐疑的で、因習を憎み、学問と自由にあこがれる二人に、世間の目は厳しくて住処や仕事もなかなか得られない。しかし、彼らはそうした世間と妥協することなく、貧しい逆境の中で、ときには奔放に、そしてけなげに生きていく。

 ところが悲劇が突然襲いかかる。ジュードが先妻とのあいだに儲けた子が、二人の間に産まれた二人の幼い子供たちを巻き添えにして、自殺してしまうのだ。自殺の直接の原因は、義理の母親であるスーに、「家族が多いのでアパートを追い出される」と言われたことだが、その前に、いろいろと人生の悲劇を体験していることが大きい。

 たとえばジュードはわざわざスーの出産シーンを息子に見せている。このとき見せられるスーの血塗られた股間の映像は子供でなくても目に焼き付いて刺激的だ。スーを演じるのは、「タイタニック」のケイト・ウィンスレットだが、彼女はこの映画でヘアーの見える全裸シーンも惜しげなく見せている。

 それはともかく、一気に3人の子供を奪われて、ジュードとスーは絶望のどん底にたたき落とされる。そして、スーは罪悪感に打ちのめされ、これまでの生活態度やジュードを捨てて、キリスト教の救いの中に逃げ込む。正気に戻ったジュードは、スーを必死で自分の世界に取り戻そうとする。

 最後まで望みを捨てないジュードに、私はニーチェのいう新しい人間の誕生を感じた。原作者のハーディもまたこうした逆説的な形で、自由意志に生きる人間の美しさと厳しさを描いている。映画でもこの点はうまく描かれていたと思う。とくにジュード役のクリストファー・エクルストンがなかなかしぶい演技を見せてくれた。

 私が、トーマス・ハーディ(1840〜1928)を知ったのは、大学の英語の授業の読本が彼の短編集だったからだ。「呪われた腕」など、原文を辞書をひきながらどきどきして読んだものだ。それから「日蔭者ジュード」や「ナナ」などを訳本で読んで、いよいよ夢中になった。以来この30余年、ハーディのファンである。

 ハーディは南イングランドのドーチェスターという町の近郊の小さな美しい村で生まれた。彼の小説はみな、この辺りの村や町を舞台にして書かれている。自然の美しさや野生の香りのようなものが、文章に満ちていて、独特な味わいのある文体が魅力的である。

 しかし、彼の小説の登場人物の多くは、人間の止みがたい情熱を通して現れてくる盲目的意志のようなものに翻弄され、おおかたはその宿命的な力に押しつぶされる。結末は陰鬱でペシミスティツクに違いないが、一途に意志を貫いて、そのあげくに滅びていく人間の情熱の美しさや純粋さには心が揺さぶられる。

 ハーディは、「分別のある恋は、本物の恋ではない」という言葉を残している。文明に対して批判的で、より原始的で野性的な本能の声に忠実に生きることを尊ぶ思想家だった。しかし、そのような生は、この世には受け入れられず、受難に満ちている。こうした人生の認識が彼を厭世家にしたのだろう。情熱故の受難であり、理想故の厭世である。

「日陰の二人」を見て思ったのは、ジュードはおそらく作者ハーディその人の分身であり、かなり忠実な自画像ではないかということだ。昔、岩波文庫で読んだ「日陰者ジュード」をもう一度読み返してみたくなった。なお、ハーディの墓碑銘には次のような言葉が刻まれているらしい。

「生まれたくなかったこの世に生まれ、取り出されて体を抑えられ、しかめ面して足をばたばた、熱いレンガの上のネコのように、床から飛び上がって奇妙なダンス、ぶっ倒れて息がとまるまで」

<今日の一句> あかね雲 淋しき空に 火を点す  裕


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