橋本裕の日記
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6.モンゴル草原の夢
私はS子と別れたいと思って、それらしいことを口にしたことがあった。 「僕は誰とも結婚しないよ。一生独身でいたいんだ」 S子を牽制する言葉だったが、口にしているうちに、そんな生き方もいいなと思うようになった。そのころはまだ大学院生の身分だったので、「自由人」に憧れるアナーキーな気分が抜けなかったこともあった。
教員になるのは、ただ食べるためで、20年ほど勤めて、そのあいだに多少の貯蓄ができたら、あとはさっさと引退して、自由な生活を謳歌する。文学や哲学の本を読んだり、実際に詩や小説を書いて、悠々自適な暮らしをするのもいいと思った。
「世界を一人で放浪してもいいね。ギリシャにディオゲネスという哲学者がいたんだ。彼は一生独身で樽の中で生活していたんだぜ。アレキサンダー大王が会いにやってきて、何か欲しいものがないかと訊いたら、なんと答えたと思う、そこをどいて、私に日光をくださいだってさ。痛快だね。僕は彼のような生き方にあこがれるな。そして、最後は、モンゴルの草原で星を眺めながら死にたいな。風葬というらしいんだけどね、そうして大地に帰っていくんだ」
S子は黙って私の夢物語を聞いていた。私の言葉を頭から疑っているわけではないようだった。すでに私は同人誌に小説や随筆を発表していたし、S子もいささか私の文学的才能は買っていた。
K子とお見合いをしたとき、「結婚」という言葉がはじめて現実的な関心として私の頭に浮かんだ。しかし、私にとって人生は序の口で、これから世間に出ていろいろな女性と付き合ってみたいと思っていた。S子やK子と別れても、この先、いくらもいい女性が現れそうな気がした。
その夜は、夕食を食べた後、S子と風呂に入った。別れたいと思っていても、体はべつだった。性欲を満たす対象として、S子は今のところただ一人の女だった。ベッドの中でS子は私に従順だった。そしてS子自身、からだの奥底から私を求めているのがよくわかった。
「こんなこと言うと、あなたすぐに自惚れるから、言いたくはないんだけど、でも、わたし、あなたが世界で一番素敵に見えるの。あなたと別々にいるのが、苦しくてならないのよ。だから、もしあなたが私を捨てたりしたら、たぶん私生きてはいけないと思うの。そのときは、私は死ぬつもりよ」 「どうやって?」 「首を吊るか、それとも頭からガソリンをかぶって……」
S子の言葉は私を不安にした。もしK子のことを知ったら、S子はどんな反応を示すだろう。S子の言葉を聞きながら、私は真っ暗なトンネルの中にいるような憂鬱と恐怖に襲われた。この後始末をどうしたらいいのか、トンネルの出口が見えなかった。モンゴルの自由な草原がとてつもなく遠く感じられた。
<今日の一句> 思い出の 小道たどれば 時計草 裕
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