橋本裕の日記
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芥川龍之介に「鼻」という短編小説がある。夏目漱石に激賞され、彼の文学活動の足がかりになった重要な作品だが、それはこんな書き出しである。
「禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである」
長い鼻は生活の障害になる。たとえば飯を食う時にも、鼻の先が椀のなかに入るので、弟子を膳の向うへ坐らせて、鼻を持上げていて貰う必要がある。弟子にとっても内供にとっても、これはたいへんなことだ。
しかし、内供が長い鼻を気に病んだ理由は、こうした生活上の不便からばかりでなない。むしろ、「内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだ」のだった。
内供はなんとか鼻が短くならないか、さまざまな方法を試みる。烏瓜を煎じて飲んだり、鼠の尿を鼻へなすって見たり、しかし何をどうしても、「鼻は依然として、五六寸の長さをぶらりと唇の上にぶら下げている」。
最後に内供が試みたのは、湯で鼻を茹でて、その鼻を弟子に踏ませるというとんでもない荒行だった。その結果どうなったのか。なんと奇跡が起こって、鼻が短くなった。ところが、内供の短い鼻を見て、周囲の人が笑い出す。これまで気の毒に思って同情していた人々までが、自分を見て笑うのに内供の自尊心はかえって傷つく・・・。 私も高校生の頃、自分の鼻が気になった時期があった。私の場合は、自分の鼻にコンプレックスがあったためではない。ただ、本を読んでいると、何となく鼻が見えて、邪魔になるのである。そのうちに、自分の鼻の頭が気になりだして、読書や勉強に集中できなくなる。
ものの本によると、これは「脅迫神経症」の一種らしい。芥川龍之介もひょっとして、何かの強迫神経症を病んでいたのかもしれない。というのも、「鼻」に描かれた内供の心のありさまが、じつにリアルだからである。そして私は芥川のこの作品を読み返す度に、自分の高校時代の不幸な体験を思い出す。
「鼻」は、何かの象徴に違いないのだが、私はそれは「自己」の象徴だと考えている。鼻が気になるということは、つまり自分が気になるということだ。自己の代替品として鼻が意識され、執着されるのだろう。
内供にとって、長くて醜い鼻は、つまりそのような自己のあり方のそのものを暗示しているわけだ。それだからこそ、必死で鼻を短く見せようとしたり、さまざまな方法を試みるのである。あくまで自分にとらわれ、その自我意識の牢獄から抜け出せない人間のあわれさや愚かしさがよく描かれている。
ところで、小説の結末は、すこしほのぼのとしている。苦労の末に短くなった鼻が、ある朝起きてみると、またもとの長さに戻っている。そのことに気付いて、、内供はむしろ安堵する。
「鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら」
人間はだれでも自分自身が気になるものである。自意識があるのはだれも同じである。しかし、これも過剰になると問題だろう。ときには自己という立場をはなれて、ひろく他人や社会のことに目を向ける必要がある。自分のことしか念頭にない利己的な生き方は、結局、人を幸福にすることはない。
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