橋本裕の日記
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| 2002年03月06日(水) |
生きた学力を育てるには |
「生きた学力とは何か」と問われたら、私は何よりもそれは「自分の頭で考える力」だと答えたい。これまで私は数学を勉強するのは「自分で考える力」を養成するためだと述べてきたが、これは何も数学に限ったことではない。すべての教科について言えることだ。
ほんの一握りの指導者が社会を動かしている非民主的な管理社会では、「考える力」が必要なのはそれらのエリートだけだ。社会の現実を見据えて社会のあり方や自己の生き方を論理的・実践的に掘り下げて考える能力など、管理される立場の民衆には必要ではないし、むしろ社会を統治するのに邪魔なだけである。
近代的な産業社会でも、事情は同じである。一般労働者に必要なのは、生産や型にはまった社会生活を営む上での限られた知識と技能であり、あとは与えられた仕事を長時間、能率よくなしとげる忍耐力や服従心である。
だから近代の学校はこうした労働者の資質を養うために、規律や時間にうるさく、個人的な自由をなるべく制限し、長時間にわたって精神や肉体を拘束するシステムになっている。そこで重視されるのは、知識力や計算力、忍耐力、組織の規律に対する従順な服従心や協調心である。
こうした規格にあった良質な労働力を大量生産する場として、近代的な学校が創設され、運営されてきた。とくに日本の学校はこうした「期待される人間像」の生産工場として有効に機能し、優秀な産業ロボット人間を作り出してきた。そしてひところは日本から輸出される工業生産物が世界を圧倒した。
しかし社会はいまや大きく変わろうとしている。情報化社会の到来で、あたらしい産業が生まれ、これまでのような反復練習や機械的暗記に重点をおいた画一的で没個性的な軍隊式教育では、このポストモダン的な状況に対応できなくなった。そこで、やおら「考える力」を重視する「あたらしい学力」が経済界からも求められるような状況になってきた。
しかし、学校は過去の遺産や社会の慣例を尊重する場所である。私たち教員もほとんど実社会での生活体験はない。自己の教科に対する知識や、自分の成功体験に固執しがちである。したがって、学校はなかなか容易なことでは変わらない。
とくに日本ではこうした社会とのギャップがいちじるしい。あいかわらず、知識偏重の没個性的で規律重視の価値観でかたまっている。学校が社会の発展に必要な創造力や個性豊かな人材を育成する場でないばかりか、その足かせにさえになっている。
生きていく上で必要とされる学力は時代とともに変わっていく。これまでの日本ではエリートでさえもが、知識力と理解力が優先されていた。すでに存在している世界の先進的な文化や技術を学ぶことに重点が置かれていたからだ。私にいわせればそのような学力は「死んだ学力」である。
これからの時代に必要なのは「過去から学ぶ力」だけではなく、あたらしいシステムや生き方を発見し、「未来を発想し、変える力」でなければならない。めまぐるしく変化する時代に生きている私たちは、過去の知識やしきたりに囚われずに、未来と世界を視野に収め、新たな状況に対応しなければ生きていけないのである。
こうした変化のなかに身を置きながら、自分の頭で考えて状況を判断し、自分の意志と力で工夫して生きていくというのは、大変なことかもしれない。しかし、それがほんとうに人間らしい、生き甲斐のある生き方だと考える個性的な人間が、これから世界で確実に増えて行くであろう。そして日本もこうした独立心のある個性的な人間が多数を占める社会にならなければ、この停滞から抜け出すことはできない。
以上に述べたことからあきらかなように、構造改革のかなめは、教育改革だということがわかる。現在わが国の教育は画一的な受験体制の呪縛状態に置かれている。そうした閉鎖的な学校を解体して、子供たちを人工的に管理された場所から、生きた教育の受けられる現実的な環境の中に置くことが必要ではないか。
「自らの頭で考える」という思考の自立こそ、生きた学力の核心だと思うが、そのような力は、生き生きとした現実と対峙し、その厳しさの中に身を置くことで鍛えられる。学校という秩序が重んじられる管理社会の中で、死んだ知識や死んだ知識を尊重する教師たちに囲まれていても、ほんとうにこの社会を生きていく上で必要な学力がつくわけではない。
学力を鍛えるには、ある種の厳しさが必要だが、それは何よりも人間らしくいきる力を養うための厳しさでなければならない。現在の学校教育の問題点は、そうした厳しさと無縁であることだろう。
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