橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
| 2002年02月24日(日) |
イメージ記憶と言語記憶 |
言語がなかったころ、またあっても今日ほど強力でなかったころは、記憶と言えば「イメージ記憶」であった。原始人は身振りや手振りなどの身体の運動で相手に意志を伝えただろう。だから、原始的な言語もこうした身体言語から発達したと考えられる。こうした言語の記憶は当然イメージとして記憶される。
私たちは名前が分からなくても、人の顔をイメージとして記憶する。そして、再びあったとき、どこかで見た顔だなと分かる。風景でもそうで、昔住んでいた町のたたずまいはイメージとして覚えている。だから写真を見せられて、すぐにああこれは昔歩いた道だと分かる。
こうしたイメージ記憶は人間以外に犬やネコも持っている。だから飼い主のところによってくるし、一度歩いた道は覚えていて迷子になったりしない。蟻やミツバチのような昆虫にさえ、記憶というものを持っている。もっともそれをイメージ記憶とよんでいいものかどうかむつかしいところだが。
人間は言語を発明して、記憶にもうひとつの新しい道を開いた。これが「言語記憶」と呼ばれるものである。そうして文字の発明により、「文章による記録」も可能になった。こうして記憶は蓄積され、共有化され、体系化された。
今日の私たちの文化的な生活は、「言語記憶」を抜きには考えられない。しかし一方でマルチメディアの時代を迎えて、「非言語的なイメージ記憶」のウエイトも高まっている。これから先、私たちの記憶のあり方がどう変わっていくのか、それによっては学習や教育の在り方も大きく変化していくことだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ものの本を読むと、決まって次のような右脳と左脳の機能分担を示す図が出てくる。昨日引用した角田忠信さんの「日本人の脳」にも出てくる。しかし、左脳を「言語脳」と呼ぶのはいいが、右脳を「イメージ脳」と呼ぶのには疑問がある。
私は左脳のロゴス的な働きと、右脳のパトス的な働きの統一によって高度なイメージや直観が得られるのではないかと思っている。言語とイメージを対立したものと考えるのではなく、ロゴス(理性)とパトス(感性)の総合として捉えるたい。
言語は多かれ少なかれイメージをともなっている。だからイメージをともなわない記憶があるのか疑問になってくる。そうすると、記憶を言語記憶と、イメージ記憶に分類することもどうだろうか。
むしろ、言語的イメージ記憶と非言語的イメージ記憶と呼ぶべきではないだろうか。しかし、こんな用語は一般的ではないので、表記については混乱を避けて、言語をともなったイメージ記憶を「言語記憶」、非言語的なイメージ記憶を「イメージ記憶」と書いておいた。
|