橋本裕の日記
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大野氏の「日本語の源流はタミル語」説について、もう少し具体的に書いておこう。たとえば、日本語に、「張る」「腫れる」「晴れる」「払う」「祓う」「腹」「原」などの一群の言葉がある。
これらの言葉に共通するのは「far」という語根である。大野氏によればこの「far」という語根がになう意味は、「物が平面的にも立体的にも大きく広がり、結局ばらばらになってきえてしまうこと」(「日本語の起源」岩波新書)だという。
一方、タミル語には日本語の「far」に対応する「par」という語根を持つ語群が存在している。 par−u (ふくれる・大きくなる・張る) par−a (広くて大きな面・原) par−avu (罪障の消滅を祈る・祓う) par−iyam (代金・支払う金)
見事な対応である。しかもこのような語根どうしの対応が他にたくさん存在している。こうなればもう、偶然の一致だとは言えない。タミル語と日本語はほとんど同一の言語だと結論してもよい。
しかし、「2千数百年前、縄文時代末期に、タミル人が海路、船団を組んで北九州に到来した」という大野氏の「タミル人到来説」はにわかには信じがたい。南インドと日本は6000キロも離れている。一体何の必要があって、タミル人は船団をくんではるばる日本へやってきたのか。
言語の見事な一致は認めるにしても、「タミル人到来説」を信じる人は少ないのではないだろうか。しかも具体的な考古学上の証拠もない。たとえ船団が到来したにせよ、それでまるごと言葉が置き換えられるというのも不自然である。大野説がなかなか受け入れられなかった背景に、このことがあるように思われる。
それでは、日本語とタミル語のこの驚くべき一致はどう説明したらよいのか。このことについて、私なりに考えたことを、これからぼちぼち書いてみようと思う。私の「日本語の起源についての仮説」は、大野説に負けないくらい壮大で、驚くべきものなのだが、その妥当性については読者の判断に委ねよう。
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