橋本裕の日記
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2001年12月08日(土) 主語の省略

 昨日の日記で、簡潔な文章を書く要諦のひとつとして、「主語の省略」をあげた。日本語の場合、主語はできるかぎり省略される。たとえば、英語で「I am sorry.」を、日本語では「私はすみません」とは言わない。そこで、今日はその意味を探ってみたい。手がかりは時枝誠記の「日本文法・口語篇」である。

「国語においては主語は述語に対立するものではなくて、術語の中から抽出されたものである。国語の特性として、主語の省略ということが言われるが、右の構造から判断すれば、主語は述語の中に含まれたものとして表現されていると考える方が適切である。・・・・国語においては、主語は述語の修飾語とみることができる」

 昨日の、「私が妻と結婚して30年間の歳月がたった」という文例で考えてみよう。「私が」という主語は「結婚して」という術語を修飾していると考えることができる。そして修飾語だから省略できるわけだ。

「30年の歳月がたった」でも、「三十年の歳月」は「たった」という述語を修飾していると考えることが出来る。つまり、日本語の文章は「述語」を中心にして、これに様々な修飾語がつくことで成り立っている。この点で英語などの外国語とはずいぶん違っている。

 しかし、このことは日本語が「私」を持たない、非主体的な言語だということではない。日本語が「話し手を中心とする言語」だということを以前に書いた。つまり、日本語は構造的に「自己中心的」にできているので、もはや「私」を文頭に置く必要がないのである。「すみません」のなかに、「私」が入っているので、「私はすみません」といっては「私」が重複する。 

 日本語が「自己中心的だ」というのは、西田哲学流に言えば、「主客未分」と言うことにもなるかもしれない。西洋の言語のように客観原理に則った「個の論理」ではなく、主観的な情況を重んじる「場の論理」に立脚している。道元流にいうなら、「自己と他己の世界」の言葉である。客観も又、主観の一部という無意識の心的傾向を、私たち日本人は持っているようである。

 たとえば、私が外出するために、玄関の戸をあけたとする。その時、外の冷気に触れて、思わず「寒い」とつぶやく。それでは「何が」寒いのか。それは「天気」や「私」だということになる。しかし「天気が寒い」「私が寒い」などと主語をおぎなった文章は不自然である。私たちはむしろ主語が何であるかを意識しない。つまり「主客未分」の状態にあるわけだ。

 このように日本語における「主語の省略」ということは、私たち日本人が普段から「主語を意識しない」生活を送っていることと無縁ではない。もっとも、このことは、主語を省略する言語習慣があるので、主語を意識しないで生きているというふうに、逆に言うこともできよう。

 さてそこで、日本語についての以上の考えをもとに、芭蕉の俳句の魅力に迫ってみよう。たとえば、次の三句である。
  古池や蛙とびこむ水の音
  閑かさや岩にしみいる蝉の声
  荒海や佐渡によこたふ天の川

 これらの名句たるゆえんはなにか。それは「蛙とびこむ」「岩にしみいる」「佐渡によこたふ」という動詞句の生き生きとした表現だろう。「とびこむ」「しみいる」「よこたふ」という動詞が生きて働いているところに、これらの俳句の文学としての成功の秘密がある。

 俳句に限らず、日本語の文章は動詞がいきいきと働いているほど美しい。主語を省略することで、かえって「ものそのもの」に内在する主体性が躍動し、文章はさわやかな生命感に満たされる。そこに広がるのは、他者の在り方をそのまま自己の在り方に重ねる、自己解脱的な共感の世界である。


橋本裕 |MAILHomePage

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