橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
昨日の日記で、共生には「新和的共生」と「競争的共生」があるという書いたところ、北さんから次のような反論があった。
<人間社会は相手をつぶしてしまうという「弱肉強食」関係よりも、むしろ「親分子分」関係が多いと私は思っています。「競争的共生」の概念は、それを是認する危険な思想につながるように思います。「競争的共生」は、「肯定」されるべき事実ですが、「是認」されるべきことではないと思います>(掲示板より、一部を引用)
私は「共生」ということを「ともにあること」という風に考えている。そしてその在り方が、友好的なものを「親和的」とよび、反友好的なものを「競争的」と呼んだ。そして「競争的共生」の例として、ライオンとシマウマをとりあげた。
北さんがいうように、たとえばやくざの世界の「親分」と「子分」も、ともにあるという意味で「共生」である。しかしこれは「競争的」という訳ではないだろう。支配―非支配という構造はあるものの、これはどちらかというと「仲間的」と見た方がいいのではないのか。あるいはお互いがそれぞれ依存していることを重視して「依存的共生」とでも名付けた方がいいのかも知れない。
私が今思い浮かぶ「競争的共生」の例に、たとえば、かっての「自民党」と「社会党」の関係がある。お互いに与党と野党として敵対しあい、国会で乱闘劇まで繰り返していた。しかしその「競争的」な関係は見せかけで、見えないところでは案外手を組んでうまくやっていた。その証拠に、最後に社会党は自民党と手を組んで、自民党の最大の苦境を救っている。まさに「(競争的)共生」である。
「資本家」と「労働者」も、ときにその利害は対立し、敵対的である。しかし、資本家と労働者はともに会社の発展を願う者同志であり、その根底では共生している。日本の場合はとくに、この共生の面が強く、競争的な面が弱い。これも括弧つきの「(競争的)共生」と言うべきかも知れない。
このようにこれまでの日本は根本が「共生社会」であり、競争はあくまでも(競争)でしかなかった部分が多い。しかし「年功序列」「終身雇用」「企業内組合」を特色とする日本型システムが崩れると、これから競争的な面が強くなるだろう。
「(競争的)共生」から「競争的共生」へ。しかし、私が危惧するのはその先に、「共生なき競争」が存在することである。こうした競争は建設的というより滅亡的である。社会的というより反社会的であり、社会の安定・発展を阻害し、ときとしてその集団を破局に導くことになる。(場合によってはやくざ同志の抗争のように、お互いに滅亡してくれた方がよいこともあるが)
こうした「共生なき競争」については、稿を改めて明日の日記にでも詳しく書いてみたいと思うが、さしあたり私の立場を言っておくと、私は「競争的共生」を肯定し、また場合によっては是認する。どうした場合に是認するかというと、その競争が共生的であるだけではなく、建設的で、社会に有用な場合である。
たとえば、tenseiさんが掲示板に書き込んでくれた「ライバル関係」などがそうだろう。<相手の成長も願いつつ、自分はそれ以上に成長しようとし、それでも自分が負ければ相手を祝福するような>関係は、社会的にも当事者自身の成長にとっても意義のある関係だと言える。
一方ではかっての「自民党と社会党」のように、非生産的で、社会的意義の面からも首を傾げざるを得ない共生関係もある。そもそも共生だからといって、なんでもよいというわけではない。たとえば「日本のやくざ」と「中国のやくざ」など、共生して欲しいとはちっとも思わない。
「競争」にも社会的に有用なものとそうでないものがあり、「共生」についても同様である。一概に「競争は悪で、共生は善」だとはいいきれない。しかし、「共生を否定する排他的競争」は一般に有用な場合が少ないように思われる。
いずれにしても、私たちは「殺戮と恐怖の支配する競争社会」を克服して、「平和で豊かな共生社会」を一刻も早く実現したいものだ。その為には「競争的共生」を「親和的競争」へ変えていく知恵や工夫とともに、「競争的共生」を社会的意義のあるものに変えていく努力が必要なのだろう。
|