橋本裕の日記
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2001年08月11日(土) 森と田の文化

 日本は2200年ほど前に、狩猟採取中心の縄文時代から農耕を中心とする弥生時代に移行したと見られている。この新しい文明をもたらした弥生人は大陸からの渡来者らしい。中国大陸の揚子江あたりから渡来したという説が有力である。

 彼らは先住民である縄文人を駆逐し、森を切り開いて、田畑を作った。こうして日本列島は少しずつ姿をかえていった。新しい集落が生まれ、人口が増加し、やがて集落が発展し、村や国が生まれることになった。

「古事記」によれば造化三神に続いて、様々な神が生まれている。とくに神代7代として、�.�ニトコタチ、�▲肇茱�モノ、��ウヒヂニ・スヒヂニ、�ぅ張離哀辧Εぅ�グヒ、�ゥ�ホトノヂ・オホトノベ、�Ε�モダル・アヤカシコネ、�Дぅ競淵�・イザナミが有名である。

この中で、�.�ニトコタチ、�▲肇茱�モノの2神はその名前からして先住民(縄文人)の神であろう。征服民の国造りを物語る「古事記」では「これらの神はやがて姿を消した」と簡単に片づけられている。

 続く��ウヒヂニ・スヒヂニウヒはウヒ(泥)やスヒ(砂)と格闘する弥生人の神である。そしてやがては本格的農耕稲作のための土木工事(農業土木)がはじまり、角杭(つのぐひ)や柵(さく)が打ち立てられる。これを象徴する神が�ぅ張離哀辧Εぅ�グヒだ。

 縄文時代の集落の代表といえば、青森県の山内丸山遺跡が有名だが、この巨大な村落には柵がない。一方、弥生時代の村落、たとえば佐賀県の吉野ヶ里遺跡の方は、完全に防備柵で囲まれた戦闘的な環壕集落になっている。こうした戦闘的な設備が、本格的な農業生産によってもたらされた富を守るために必要だった。

 同時に、集落の中で貧富の差があらわれる。広大な土地と屋敷を所有する�ゥ�ホトノヂ・オホトノベが生まれ、彼らは経済的豊かさを享受することができるので、思(おも)いがかなって満足(たる)を知る。さらに彩(あや)かしい文化がうまれてくる。すなわち経済的・文化的豊かさを象徴する�Ε�モダル・アヤカシコネの神が出現するわけだ。

 縄文文化は「森の文化」である。それは「必要なだけ働き、必要なだけ取る」という知足の文化である。そうした文化に貧富の差は生まれようがなく、また争いが生まれようはずがなかった。

 たとえば、丸山三内遺跡では成人の墓約100基、小児用の墓約800基が見つかっているが、集落のそばに整然と配列されたこれらの墓地は、全く大小の区別なく、副葬品もみな同様である。巨大な建物も、王や貴族の家ではなく、宗教的儀礼や共同の作業場、食料貯蔵庫などであったと推定されている。

 これに対して弥生文化は農耕の文化である。大規模な土木工事や、社や古墳を造り、その威容をお互いに競い合うことで、さらに支配の領域を広げ、その権力を拡大していった。そして綾やかな装飾文化を創造した。

 しかし、「田の文化」は結局「森の文化」を完全に駆逐することはしなかった。むしろ日本人はそれぞれの文化に価値を認め、その共生をはかった。森が亡びるとき、豊かな水が失われ、田の文化もまた亡びることを知っていたからである。

 アメリカの森は17世紀以降の移民によって切り開かれ、ワタ、トウモロコシ、タバコなどの大規模栽培が始められた。その結果、かっての大森林がこの3百年間にほとんど破壊つくされてしまった。森の崩壊は、農地の乾燥をうながす。森の崩壊は世界的な現象だが、とくに世界の穀倉と呼ばれるアメリカ農業の崩壊は、人類生存の危機である。

 日本では神社にはかならず鎮守の森がもうけられ、森を食いつぶす家畜の数は抑えられた。さらに森と海の共生がはかられて、「魚付き林」が維持された。この結果、日本の緑被率は67%と、フィンランドの69%に続いて世界第2位である。

 世界は20世紀になって本格的な「工業社会」に入った。そしてさらに、21世紀は「情報化社会」の時代だと言われている。時代は激しく変化しているが、私たちは「多様な文化が共生すること」の大切さを認識すべきだ。とくに今私たちに求められているのは、日本独自の「森と田の共生する文化」を守り、この思想の価値を世界に知らしめることだと思う。


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