橋本裕の日記
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| 2001年07月16日(月) |
アルキメデスからの手紙 |
1906年にコンスタンチノーブルで古くさい羊皮紙が多量に見つかった。つまらない宗教上の迷信を書き連ねた価値のないもののように見えたが、実はもとの文字を消してその上に新しく文字を書いたパリンセストといわれるものだった。
コンスタンチノーブルは東ローマ帝国の都であり、数知れぬ侵略戦争の結果、略奪品や戦利品が多く持ち込まれた。異教徒の書物は多く焼かれたが、羊皮紙は高価なものだから、このようにして再利用されるものもあった。
パリンセストはもとの文字の消し方が不完全な場合、特殊な写真でこれを復元することが出来る。そのとき見つかったパリンセストもこのようにして、もとの文字の復元が試みられた。
復元によって、とんでもない歴史上の掘り出し物が得られることがある。今の場合がそうだった。なんとそこから、シシリー島のアルキメデスが、アレキサンドリアのエラトステネスにあてた手紙が浮き出してきたのである。
「前のお便りで、私の見つけた定理のいくつかをお知らせしました。ただし、命題を書いただけで、証明はあなた自身がされるよう、そのときには書きませんでした。その後、定理の証明をこの本に書きましたので、あなたにお送りする次第です」
「いつもいうように、あなたが相変わらず熱心な生徒であることを知っていますので、この本にある、ある特殊な方法について、詳しく説明するのが適切と存じます」
「この方法によれば、数学におけるいくつかの問題を力学の方法で攻めていくことが可能になりましょう。このやりかたは、私の信ずるところによれば、定理の証明そのものに勝るとも劣らぬくらい有用なのです」
「と申しますのも、何か物事が私にはっきり見えてくるのは、力学的方法によってなのです。それは本当の証明にはなっていないので、もちろんあとで幾何学によって証明し直さなければならないのですが、問題について何らかの知識をこの方法によってあらかじめ知った場合には、証明を与えるには、事前に何も知らずにやるのに比べてずっと容易になることは言うまでもありません」
もしこの手紙を、その著者を隠して読まされたら、私はたぶん「微分積分学と物理学の父ニュートン」を予想したと思う。そのくらい、その文面は近代的知性の輝きと豊かさを感じさせる。その「方法」の先進性はとても古代世界に住んでいた人のものとは思えない。
アルキメデスが緻密な論理能力を有していたことは、彼の証明が彼以前のギリシャの数学者のだれよりも厳密なものであったことで立証されている。しかし、彼の本当の真価は、問題を新しく「発見」するその独特の独創性にあった。まさにそれは、「定理の証明そのものに勝るとも劣らぬくらい有用」な才能である。彼はいかにしてその能力を身につけたか。その秘密が「力学の研究」だったことが、この手紙からわかる。
アルキメデスはシシリー島のシラクサに生まれ、若い頃エジプトのアレキサンドリアに留学した。その後シラクサに戻って、人生のほとんどをそこで過ごしたが、数学や科学についての研究を続け、その成果をこうしてアレキサンドリアの友人たちに送り届けていた。ローマの伝記作家プルタークは次のように書いている。
「アルキメデスは気高い精神、深遠な魂、そして科学的知識のいっぱいつまった宝庫を備えもった人物であった。今日、彼はそういった発明品を通して、人間離れのした英知という評判を得ているが、それについては何のコメントも文書も残そうとしなかった。機械や実用や利益につながる種類の技術を卑しい、品性に欠けるものとして一切の売買を拒否したのだ。彼は自らの愛情と志を純粋な思索においており、そこには人生の卑俗な要求など入り込む余地はなかったのである」
たしかに、プルタークの言うとおり、彼は「思索の人」であった。彼以前のギリシャ数学は、ユークリッドに代表されるように、「円と直線も幾何学」だった。それは彼らが何よりも観念世界の単純な調和を重んじたからだろう。
しかし、アルキメデスは単にそうしたギリシャの純粋な思索家ではなかった。彼がエジプトに留学したとき発明したラセン式のポンプを持つ「アルキメデスの水車」は2000年以上も経った今でもエジプトで灌漑用の機械として使われている。
また、こや滑車の原理を発見して使用したり、金の王冠にまつわる浮力の発見の話も有名である。幾何学を「円と直線の世界」の呪縛から解放し、楕円や放物線の研究に向かわせた自由な探求精神は、彼が幾何学を物理学や技術と結びつけて考えていたことが大きい。そしてそれこそが彼が発見し、手紙に書いた「方法」だった。
ローマ軍が小国シラクサを攻撃したとき、彼の発明した起重機や投石機などの新兵器が活躍して、3年間ローマの大軍を寄せ付けなかった。しかし、やがて陥落するときがきた。そのとき75歳だった彼は、あいかわらず数学の研究に没頭していた。そして「私の円にさわるな」と言って、ローマの兵士に斬り殺されたという。
ローマの将軍マルケルスはローマを苦しめた偉大な学者の死を悼み、彼の遺言どおり円柱に内接する球の体積を表す図を刻んだ墓碑を建てた。この墓碑はやがて失われたが、シシリーの太守になったキケロが捜しだし、もう一度そこに建てたという。
今日、アルキメデスの著作はかなり残っている。クレオパトラとシーザーの暴虐によって古代世界の知識の集積庫であったアレキサンドリアの図書館が焼かれたとき、貴重な文献のほとんどが灰燼に帰したが、彼に関しては多くの写本があったことが幸いしたのだろう。
アルキメデスの死後、およそ2000年間のあいだ、世界史において彼を凌駕する数学者、科学者、技術者を見ることはできなかった。ニュートンが「もし私が、他の人より遠くまで見ることができたとすれば、それは、私が巨人の肩に乗っていたからである」と述べたとき、彼の頭の中には、イタリアの小島に住んでいた精神世界の巨人、アルキメデスの姿があったはずである。
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