橋本裕の日記
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2001年07月13日(金) 円周率に見る数学の歴史(7)

 和辻哲郎が「風土」のなかで、法隆寺の円柱にはるかギリシャのパルテノン神殿との類似性を指摘している。シルクロードを通り、東西の異文化の交流があったことはまちがいない。

 アルキメデスの多角形を用いた円周率の計算法について、私はインドや中国でも独立に発見されたという説に傾いているが、アレキサンダー大王の遠征を通じて、ギリシャの学問がインド、中国へと伝わった可能性も否定できない。

 日本では三浦按針(ウイリアム・アダムス)が江戸城で徳川家康にユークリッド幾何学を講じたという話が残っている。そのころ、スペインの宣教師カルロ・スピノラ(1564〜1622)が京都の天主堂にアカデミアを設け、数学を教えていた。そこで学んだのが、後に「割算書」を書いた毛利重能や「塵劫記」の吉田素案、光由親子たちで、「和算」は彼らから始まったと考えられる。

 私が「和算」に興味を持ったのは10年ほど前で、東京の国会図書館に行って和算関係の本を読み、ノートを取った。それをもとに、当時在職した県立高校の「紀要」に文章を書いた。そこで論じた「和算」の独創性についての議論もふくめて、円周率の計算の日本における歴史を簡単に振り返っておこう。

 さて、「割算書」「塵劫記」で円周率として、3.2もしくは3.16を使っている。その由来は記されていないが、これは師のスピノラが円に内外接する正6角形もしくは12角形を使って計算したのを拝借したのではないかと思われる。この値は世界のどこにもなく、和算の世界だけで50年間も使われた。

 1663年、村松茂清が「算俎」を著し、円に内接する正多角形を使って円周率7桁まで求めている。この書が画期的なのは、これまでの秘伝主義によらずに、はじめてその解法の手口まで書かれていたことだ。以後、日本でも正多角形を使う方法が広まって、1712年に関孝和が12桁まで、1722年には建部賢弘が40桁までこの方法で計算している。

 これらの数値は「正多角形法」をもちいた計算としては、世界の最高水準であった。しかし、このころヨーロッパでは級数をもちいたもっと進んだ計算法が確立されていた。この新しい級数的方法によって、1719年にはトマスが127桁まで計算しているから、勝負はあきらかだろう。

 アルキメデス以来の旧式の方法で、これだけの成果を上げた日本人の職人的な計算能力には脱帽しないわけにはいかないが、これをもって日本人の独創性や優秀性を主張するのはむつかしい。

 日本や中国ではこうした先進的な学問上の成果が、一般社会に浸透していかなかった。日本では江戸時代の末期まで、円周率=√10説が使われていたし、中国では19世紀の算術書「微精周術」が円周率を3.125であると書いている。

 解法の手口をあかさない東洋流の秘伝・秘技の権威主義が、学問や技術の発展を阻んだ要因であることは疑いがない。しかし、こと「和算」に関しては、全国にその愛好家はかなりいて、神社の「算額」(絵馬の一種)などに問題を書いて、お互いに技術を競い合っていたようだ。

 たとえば、岐阜県養老郡養老町高田の田代神社には、天保12年(1841)に作られた算額があるが、その中に「一辺の長さが10寸の正方形に等しい円の直径を求めよ。答えて曰く、11.2寸。術に曰く、1.12×10」というのがある。

 これを出題したのは当時12歳の土屋房吉という少年である。田代神社には他に11歳と13歳の少年の出題した問題が算額として残っているという。これによっても江戸時代に和算が庶民の知的遊戯として日本の津々浦々で盛んに行われていたことがわかる。


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